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「共生を」ひっくり返された確定診断と無視される患者の心|2022年5月24日

先日の入院や入院前の騒動でストレスを抱えたばかりだというのに、サイトに残せるか怪しいほど心に傷を負った。

少なくともわたしはそんな気分だ。

とても乱文で読みにくい気もするけど、あとで見返したときに自分でも「何言ってんだこいつ」ってなりそうな気もするけど、

精神神経科の先生の言葉を借りるなら、これが

「背中に包丁を刺されて、『痛い』って言ってるのに抜いてくれずに『姿勢に気をつけてね』って言うだけで、『包丁がさらにぐいぐい深く刺さったりぐりぐり回転して肉をえぐり始めたら『これは難病かも』って再考しようか』って言われている状態」

診察中も精神科でも家でも泣くしかできなかった、わたしといういち患者の心情です。

『live well with 病名・障害』と言われたくない

「君は多発性硬化症じゃない」

「多発性硬化症と最初の病院では診断されているけど、あの病院に多発性硬化症を診断できる医者はいない」

「僕ははじめから、君が多発性硬化症だとは言ってない」

わたしを「ワクチン後脳症疑い」としてきた主治医は、先日2022年4月29日~2022年5月7日の入院前にわたしの病名を「ワクチン後脳症にしよっか」と言った。

ここの入院前から入院中の記録はエッセイ「僕の日」にて連載中です

これが正しければわたしは難病ではなくなる。

わたしは治る「ということになる」。

けれど、わたしの

  • 痛みは
  • 痙攣は
  • 痺れは
  • 握力低下は
  • 視力と視野は
  • 暑くなると脱力する症状は

止んでいないし、返ってこない。

「難病じゃなくなるなら、どうすれば治るんですか」

わたしはただ、元気になりたいだけなのに。

効いていないと思った薬をやめ、害が多いと思った薬をやめ、その結果「免疫治療は効かなかった」と言われる。

血漿交換やステロイドパルスや免疫グロブリン点滴で好転したエピソードを無視されて、

「右半身麻痺の前にB型肝炎ワクチンを5回打った」というエピソードばかり注目して病名をつけられる。

 

先日の入院でもそうだった。

わたしはてんかんの検査を2度も受けて2度とも否定されているのに「てんかん」と付けられた。

エビデンスにうるさいくせに、エビデンスを無視する。

それが理解不能だった。

 

「治療せずに入院したことがないから、入院して良くなったのか治療で良くなったのかわからない」

聞けば、昔に多発性硬化症だと思っていたのにビタミンB1欠乏症で、行っていたステロイドパルスではなく入院食で回復した例があったそう。

理系として聞けばたしかにそう……そうか?

先日の入院は治療されていない、強烈な発作が起きれば鎮静剤を打たれて終わり、発作が起きる前に眠らせる作戦で眠剤を出されて終わりだったけれど、それでも「免疫治療の効果がわからない」……?

治療しない入院の比較対象、あるじゃないか。

 

難病じゃないなら、治してほしいだけなんだ。

「どうしたら治るとか治らないとかじゃなくて、『live well with 病名・障害』っていう言葉があるんだけど、今のこの状態を受け容れて、どう『live well』できるかだと思うな」

ずっとわたしを診てきてくれて全幅の信頼を寄せているあなたからだけは、その言葉は聞きたくなかった。

「お前が苦しいのは今の状況を受け容れていないからだ」

そんなふうにも聞こえる無理やりな障害受容論を、あなたからだけは聞きたくなかった。

「障害・病気を受け容れた私はこんなにも幸せよ」

そんな幸せ自慢にも聞こえる強制的な障害受容論を、あなたからだけは聞きたくなかった。

 

得意なことやできることをやって生きればいい、と他人に言うのは簡単だ。

けれどそれは成功した人の理論だ。

「苦手なことでも一定水準までできるようにがんばりましょう」って逆上がりができるまで練習させられるようなものが日本の教育で、

「『苦手だから・障害だから』に甘えず生きましょう」が日本の福祉システムだ。

そして「苦手なことやできないものがやりたいことと同じなら、それは諦めて自分にできることでがんばりましょう」というのはとても残酷だ。

 

現実問題そうするしかないとしても、得意なことをして生きるかどうかの決定権は患者・障害者自身にあって良いと思う。

  • やりたいけど苦手だから……それを補うのが教育で
  • やりたいけど障害でできないから……それを補うのが福祉で
  • やりたいけど病気でできないから……それを補うのが医療だ

と思う。

病気だから、障害だから諦めろと言う前に、医療の限界まで尽くすべきだと思う。

諦めろとさとすのは、医療の役割ではないはずだ。

 

苦手なことを克服できるよう努力するも、得意なことだけやってできないことを避けて生きるも、自分自身で決めるものであって、医師に指示されることじゃない。

 

わたしは自分の好きな、信頼している人から遠回しな「これ以上何もしない(できないわけではない)」を聞きたくなかった。

 

「多発性硬化症」は診断病院のミス

正しく・古い・今の診断基準(マクドナルド基準)では、多発性硬化症は

時間的・空間的に多発する

という診断条件がある。

半身麻痺で運ばれた病院では

  • 単純MRIで病変大量(今の病変も過去の病変も全部映る)
  • 造影MRIで病変2つ(今の病変だけが映る)

ということで、

「過去にも病変はあったが影響の出にくい部位なので気づかなかったのだろう。しかしこれだけ複数病変があり(空間的多発)、過去にも病変があった(時間的多発)と考えると多発性硬化症と診断できる」

と言われたけど、今日は

「それは時間的多発と考えてはいけない」

「1回に強烈な症状があっても多発性硬化症と診断してはいけないから、その診断が間違っている」

と言われ、

「そもそも診断できる医師もいないのに」

と全否定され、わたしの病名はまた行方不明になった。

 

「もう治療は受けない」と言った手前、今更病名を気にしても仕方がない。

でもわたしの主治医はもうすぐ変わる。

それどころか病院ごと変わる。

抗痙攣薬を減らすとガチで命に関わり病院暮らしになるとわかった今、抗痙攣薬だけはもらうしかない。

それには病院を引き継いでもらうしかない。

そのとき、引き継がれた医師は「病名」を見て治療方針を決める。

決して「患者を見て」ではない。

それに患者の話を聴いて再度「病名検めをしよう」なんていうのは、よほどその道の権威か暇人かのどちらかだ。

わたしは上記以外にも典型的なMSの症状をもっているのに、全部「脳症とその後遺症」で済まされるんですか?

「症状が出るのはお前の回復力が悪いから」で済まされるんですか?

今の主治医と出会うまでは「典型的なMS」と言われてきたのに?

ワクチンを5回打っただけで、苦しんだこの4年を全部なかったことにされてしまう。

何も症状はないけどMRIを受けていれば、せめて「時間的多発」を証明できたかもしれないのに。

でも19歳で髄膜炎にかかったときのMRIには何も映っていなかったんだ。

21歳で「多発性硬化症診断」を受けたときは「この2年間に何かあったのかな」と思ったけど、その間にもう1度でも検査していれば良かったのかな。

今となっては何もわからないけど、確かなのは、ただ、わたしは「弾かれた」ということだ。

 

精神神経科での比喩「包丁を刺したまま抜かない」

わたしの精神状態を表すには、流石プロ、精神神経科の先生のたとえ話がとてもわかりやすいと思う。

先生
先生

包丁を背中に刺されたけど、「姿勢に気をつけて」だけ言われる感じ?

はるか
はるか

そのうえ抜いてもらえない感じです

先生
先生

それで、さらに包丁がめり込むかぐりぐり周りをえぐり出したら

はるか
はるか

再発で多発性硬化症の可能性を考えるらしいです

先生
先生

勝手に包丁が動くわけないのにね笑

でもそれは、一生治らないってこと?

その通り。

悪化(再発)すれば多発性硬化症の可能性を考えるけれど、それまではワクチン後脳症の確率が高い(ただし断定ではない)

新しい先生への申し送りは「免疫治療が有効な気もする非典型MSだけどワクチン後脳症説が優勢」となるらしい。

これまで通りといえばこれまで通りだ。

 

悪くなったら4年前に受けた通りの「一生治らない」宣告が続くだけ。

良くなったら……これがとても疑問だ。

主治医は「多発性硬化症なのにステロイド治療をしていないなんて僕が怒られる」と言った。

「ステロイドを服用していないのに多発性硬化症としてまわすわけにはいかない」と。

 

でもステロイドを中止したのはわたしの意思だ。

それくらい新しい先生に伝える。

なのに、どうして。

わたしが体調を良好に保つ努力をすればするほど、多発性硬化症とは認めてもらえない……

 

多発性硬化症撤回が嫌な理由「何も変わらない」

なぜ多発性硬化症にこだわるのか、不思議に思うと思う。

難病じゃないに越したことはない。

はるか
はるか

まあ多発性硬化症でなくても心臓奇形をもっている段階で難病患者なのは変わらないのだけど…

実際精神神経科の先生にも聞かれた。

それに対して、わたしの答えはとても単純明快だ。

 

わたしは治りたい。

 

不治の病だと言われてきた。

医療の限界だと言われてきた。

それなら諦めがついた。

医療へも医師へも理解ができた。

 

でも、治る病気だったら?

一過性の病気だったら?

 

治りたいと思うのは、自然だと思う。

一過性の病気で今あるのは後遺症だと言われれば、

「どうしたら治るんですか?」

って尋ねるのはとても自然なことだと思う。

それを「今ある状態を受け容れて……」とか言われて、今ある症状は何もかも消えないと言われて、

「今はワクチン後脳症だと思うけど再発(悪化)したら多発性硬化症かも」

と言われたら?

 

それ、何も変わってないじゃん。

 

病名ごと疑われてるかそうでないかが変わっただけで、わたしの体は何も変わっていない。

回復するための手段が何もないところまで、何も変わってない。

病名ごと疑われてる意味は、まったくない。

ただ治ったことにされて、わたしの苦しみをわたしの回復力のせいにされただけで、

何もかもどうしようもないことには、まったく変わりない。

 

多発性硬化症にこだわっているわけじゃない。

変える意味がわからないんだ。

何もできないことには変わりないのに、

これから先なにが起こるかわからないことも変わりないのに、

治療法がないことに変わりないのに、

原因不明なことは……ワクチンのせいにする気だろうけど、だからといって今さら「一過性」のくせに「治らない」し「治っていない」し、

対症療法に縋るしか道はないのも変わりないのに、

何をどうしたいのか、さっぱりわからない。

 

がんがわかれば治療する。

手遅れなら「覚悟して」と言われる。

手遅れながんと難病は通じるところがあると思う。

どちらも「もう治らないけど諦めないで」だ。

そんなふうに諦めがつくなら良かった。

でも手遅れでないなら、治らないわけではないなら、治してほしいと思う。

それだけだ。

 

頸椎の再発疑いでMRIが決定

ステロイド内服をやめてから1か月ほど。

あまりにもレルミット兆候(らしきもの)が酷くなったので、頸椎の再発疑いでMRIを撮ることになった。

まだ撮っていないので結果も出ていないけど、病変が出ないのはいつものこと。

病変が出ない「NINJA」型も正確には多発性硬化症ではないというから、もしわたしがNINJAであれば多発性硬化症ではないと断言する要因になる。

ただ再発疑いで何度もMRIを受けてきたしこれからも受ける相手に「多発性硬化症じゃないだろうけど再発だったら考える」「もしかしたらスティッフパーソン(難病のひとつ)かも」とか言うくらいなら、

もう「今の医療ではなんの病気かわからなくてどうしようもないけど引き継ぎのためにとりあえず多発性硬化症って書いとくよ。それが1番症状近いし」で良いと思う。

だって症状だけは典型的なMSだもの。

 

結局「先生だけは障害受容の難しさをわかってほしかった」

いやもうそれだってどうでもいい。

わたしはきっと、ただただ、健康で多発性硬化症とかの病気を知らない人が

「病気や障害を受け容れて得意なことだけやって暮らせばいいんだよ」

と言ったことに、

得意だとかできることだとか、それで暮らしていけるのは才能ある人だけだという冷たい現実を知らない人が、

1番信頼している人が障害受容の難しさや、それをしたって「live well(良く暮らす)」ことはできないという現実を知らないことに、

それを患者にただ押しつけるだけで「医療の責任」を放棄したことに、

大きなショックを受けた。

きっと、ただそれだけだった。

いや、やっぱ「難病じゃないというなら治してほしかった」

それくらい、わたしはとても苦しかった。

苦しんでいた。

苦しんでいる。

痛む体と、固定しなければ動かない腕と、電撃の走る背骨と。

頼むから動いてほしいと思うときに限って動かない全身と。

それを知らない人には、絶対に言われたくなかった。

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まぁるいせかい管理人
はるか

考察家。作家。開発者。多発性硬化症+希少難病+先天性心臓奇形などをもつ障害者。病歴や薬歴は多すぎるので管理者情報参照。今までにないものを創るお仕事。京大医学部を病気により中退。ケアストレスカウンセラー、保育士などの資格をもつ。

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