「これは事実に基づいた作品です。」
という1文から始まる映画に、わたしははじめのシーンから衝撃を受けました。
「それでも夜は明ける」あらすじ
あらすじ
バイオリニストのソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、幸せな暮らしを送っていた。愛する妻は腕の良い料理人で、幼い娘と息子も元気に育っている。1841年、アメリカ・ニューヨーク州サラトガ。ソロモンは生まれた時から自由証明書で認められた自由黒人で、白人の友人も多くいた。
ある時、知人の紹介で、ワシントンで開催されるショーでの演奏を頼まれる。契約の2週間を終え、興行主と祝杯をあげたソロモンは、いつになく酔いつぶれてしまう。
翌朝、目が覚めると、ソロモンは小屋の中で、手と足を重い鎖につながれていた。様子を見に来た男たちに身分を告げるが、彼らは平然と「おまえは南部から逃げてきた奴隷だ」と宣告し、認めないソロモンを激しく鞭打つ。
興行主に騙されて売られたと気付いた時には、既に船の上だった。屈強な二人の黒人たちと共に反乱を目論むが、女を助けようとした一人が虫でも潰すように刺し殺されるのを見て、抵抗が無駄だと悟る。
ニューオーリンズの奴隷市場に着くと、奴隷商人(ポール・ジアマッティ)から無理やり“ソロモン”という名前すら奪われ、男も女も全員裸で並べられ、子どもは「将来は立派な家畜になりますよ」と紹介される。こうしてソロモンは、大農園主のフォード(ベネディクト・カンバーバッチ)に買われていく。
有能なソロモンはすぐにフォードに気に入られるが、大工のティビッツ(ポール・ダノ)からは何かと難癖をつけられる。ついにソロモンの中で何かが弾け、殴りかかるティビッツに反撃してしまう。仲間を引き連れて戻ってきたティビッツは、ソロモンの首に縄をかけて木に吊るす。監督官が彼らを銃で追い払うが、フォードが戻るまで、ソロモンはかろうじて爪先が地面に着く状態で何時間も放置される。
フォードは面倒を起こすソロモンを、借金返済を兼ねてエップス(マイケル・ファスベンダー)に売る。フォードは優しい主人だったが、所詮奴隷は“財産”なのだ。広大な綿花畑を所有するエップスに仕え始めたソロモンは、今まではまだ地獄を覗いていただけだと悟る。エップスは、とても正視できない暴力で奴隷たちを支配し、まだ年若いパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)をサディスティックに弄ぶ。ソロモンに信頼を寄せたパッツィーは、ある夜「自分を殺してくれ」と頼むが、彼にはできない。
焼け付く太陽の下でひたすら綿を摘み、少ないと鞭打たれ、逃亡奴隷の処刑を目撃し、信じた白人に裏切られ、仲間であるパッツィーの鞭打ちを命じられる──絶望の暗黒の中、ソロモンを支えたのは、もう一度家族に会いたいという願いだけだった。そしてソロモンは、カナダ人の奴隷解放論者バス(ブラッド・ピット)に、最後の望みを託す。家族も、財産も、名前さえもを奪われたソロモンが、唯一失わなかったものとは──?
引用元:映画公式HP「STORY」;http://yo-akeru.gaga.ne.jp/story.html
差別の強調シーン
以下にわたしが特に気になったシーンをピックアップします。
「簡単な仕事」のサトウキビ収穫
刈り取り、皮をナタでそのまま削いで束にすることを「簡単な仕事だ」と言い、1本だけ見本を見せるばかりであとは畑に似つかわしくない豪奢な椅子に夫婦で座り、うちわで仰いで涼しく過ごすオーナー男性。
畑で働く人たちが声を揃えるのは、太陽神・ソロモンへの祈りのような悲鳴。
「母は死んだ。父も死んだ。暑い」
そんな歌が聞こえていながら、オーナー夫婦は優雅に涼んでいます。
最初に「黒人と白人との身分の違い」を強く印象付けられるシーンです。
夜の過ごし方
黒人労働者たちは皆雑魚寝。
そこには男女関係ありません。
他にバレないよう、簡単に済まされる愛し合う2人の情事。
一方の白人オーナーたちは優雅に贅沢な夜会でパーティーを楽しみます。
翌日の友人たち白人同士の集まりも、あまりに格差を感じるものです。
明るく楽しく、朝から人身売買のお話。
そして夜のお酒の場で、主人公は食事か酒に睡眠薬を混ぜられ捕まってしまいます。
「ちゃんと生きたい」
捕まったまま殴り続けられ奴隷船に乗せられた主人公が、そこで出会った友人2人から受けたアドバイス。
- 「生き残りたいなら素性を明かすな」
- 「読み書きできることも言うな」
- 「余計なことはするな」
というものに対して素朴に呟いた言葉です。
ただその友人たちも、1人は逆らって刺殺され、もう1人は途中で奴隷主に見つかりペコペコと頭を下げながら下船します。
船内で他の黒人たちを「奴隷根性が染み付いちまってる」と嘲笑ったのとはまるで別人です。
友人の刺殺体を海に流したときの「俺たちより幸せだ」というもう1人の友人の言葉は、まさに続く主人公の苦難への伏線でしょう。
「奴隷」と「家畜」
屋敷の一室で当然のように行われる奴隷市場。
そこでは、大人は奴隷、少年は将来の家畜、少女は将来の大金の元という発言が繰り返されます。
人命、人権より金が重要視される一幕で、強制的に引き裂かれた親子の涙と叫びが強烈なシーンです。
聖書朗読のような「勝手なルール」
最初から至る場面で行われる聖書朗読ですが、ただ聖書を朗読しているものもあれば、「仕事をしない者、さぼった者は鞭打ち」など聖書にないものを「神の言葉」として黒人たちに言い聞かせるシーンもあります。
ただ黒人は字が読めないことになっているので、その間違いを指摘することはできません。
これは雇い主が変わる度に違った規則となります。
雇い主の人格が表れるところでもあります。
天災=人災?
「害虫で綿花が取れない…天災だ。昨年に続いて今年も…聖書通りだ。不信心な奴ら…奴隷どものせいだ!」
天災すら黒人のせいにしてしまう衝撃のシーンでした。
そして働いている最中の黒人たちに馬の上から鞭を打っていきます。
その後は「天災で仕事がないから」と昔の雇い主に一時的に売り飛ばされ買い戻され…まさに「モノ」扱いです。
天災すら人のせいにするか…と思いましたが、人扱いされていないので人災と呼んでいいのかすら疑問が残ります。
「正義を信じるか」
この作品で示される「正義」は非常に単純明快で「奴隷制度は悪である」ということです。
曖昧に「正義」という言葉や概念を使ってしまうと暴走した正義感や解釈によって犯罪が生じることが多々ありますが、訴えたいことが歴然としている上にセリフで示されているこの作品では誤解のしようがありません。
「ニガー」
咄嗟にニジェールを綴りとして連想しましたが、作品内では黒人奴隷を差別するときに使われる単語で、ラテン語の「negro(黒人)」が由来でした。
綴りもniggerでニジェールとはまったく関係なく…。
元々中立的な意味だったようですが、次第に黒人への侮蔑の意味が込められるようになっていったそうです。
時代とともに言葉の意味が変化することはよくありますが、侮蔑の意味が加わったところにはインドからの奴隷商が関係していそうですね。
未だに黒人同士が挨拶で使う場合を除いては蔑称となるようなので、使用しないようにすべきでしょう。
「自由黒人」
アメリカの歴史において、法的に奴隷ではない黒人とされた地位にあった人々を指す。
自由黒人って何?と調べてみて、出てきたウィキペディアの1文に絶句しました。
つまり、それ以外は黒人なら容赦なく奴隷だと?
だからこそ作品内の黒人たちは皆背中にひどい痣があり、逆らうことも諦めているのだなと。
納得とともに激しい怒りの湧いた単語でした。
作品を通じて
この作品を通じて描かれていることは「黒人の人権のなさ」です。
主人公は文字の読み書きはもちろん、バイオリンを弾くこともできますし弁舌も立ちます。
現代であればマルチタスク型として重宝されたでしょう。
最初の彼の優しい雇い主も、「お前は万能で仕事ができるが、言い返す。それが怖い」と忠告します。
その忠告の通り、主人公は話すことでかなりの敵を作っていきます。
しかし相手は白人なので罰せられることはなく、逆に主人公や周りが鞭打ち、ときに首吊りに遭う始末。
テロップでの
というシーンがかなりの衝撃を与え、映画は終わります。
白人は皆口を揃えて「黒人は奴隷、奴隷は所有物、鞭打ちはただ所有物で遊んでいるだけ」と答えます。
作品内でただ1人だけ異を唱えた白人はカナダ生まれで、奴隷制度が当然とされているアメリカ南部では他の白人から嘲笑されます。
しかし「白人も黒人も変わらない。神から見れば同じだ。奴隷制がひっくり返ったとき、君たちの立場はどうなる?」と雇い主である白人に向かって、黒人たちの前で堂々と言えたのは彼でした。
南北戦争と後の奴隷制廃止を受けて、彼の言う「正義」は実現しますが、未だに差別があるのは事実です。
他人の感想たちへの考察
この映画を一緒に観た人々の意見に感じるものがあったので、まずは羅列します。
- 「なんか重い話だね」
- 「こうやって女性が映画観ることも考えられなかったからね」
- 「女性は働けだったからね」
- 「しんどかった」
この感想を見て、みなさまは何を思うでしょうか。
実際に耳で聞いたわたしは、あまりに短絡的な感想に絶句しました。
差別の歴史の話ですから、重くて当然です。
ただそれを「現代にも起きている身近な話」ではなく「現代に生きる自分たちには関係のない重い映画の物語」として片付けてしまえる神経を疑いました。
これらの感想について、女性差別、女性蔑視の風潮には、以前わたしが女性専用車両の「医学的」意味についてゲーム実況したところ
- 「女性専用車両は法的には無効である」
- 「女性は冤罪を招く」
- 「女性はヒステリックだ」
- 「フランス革命で自立を選んだのだから自衛しろ」
- 「せっかく男が守ってやっていたのに」
などのコメントからの、わたしへの誹謗中傷が殺到したためコメントを全削除した上で一括で答える動画を作る羽目になりました。
まずこうしたコメントをする方々に言いたいのは「伝える先と論点が違う」という話でしたが、今回は映画レビューなので映画に絡めた感想に絞ります。
作品内では、白人が黒人を夜伽の相手として使うシーンがあります。
使われた黒人女性は日々の労働に夜伽の相手に、雇い主の奥様からのいじめにと苦しみ、将来が見えないからと主人公に自分を殺してくれと嘆願します。
この夜伽のシーン、不覚にも「病気や障害もちでも体は魅力的ですからね」とわたしに性玩具になるよう脅してきた高校生を思い出してしまいました。
↓実話を元にした考察
非常に矛盾しています。
見る側の意識で変化する存在。
これは「黒人は人間だ」と認めながらも、黒人たちを使う自分を正当化するために普段は「所有物である、だから物である」と自己暗示をかけているように聞こえます。
キリスト教を信仰するからこそ、「隣人を愛せない理由は隣人である黒人が物だからである」というこじつけがましい理論に聞こえるのです。
持論
作品中では「神から見れば黒人も白人も変わらない」という言葉で表された「平等」という概念。
わたしは「死は誰にでも訪れる」「死ねば皆ただの肉塊」「皮膚をはぐればみんな同じ」という意味で「黒人も白人も平等」だと考えています。
そもそも人類の発端はアフリカのイヴという女性と言われていて、ベートーヴェンの第九に倣うなら「人類みな兄弟」です。
そんな中でたかが肌の色、遺伝子の違いで相手の人権を認めないのはおかしいです。
これは男女差別にも当てはまります。
たかが染色体の違いで、なぜこうももめごとになるのか。
甚だ疑問でなりません。
上の感想を述べた人々は皆わたしの母の年代です。
こうした浅い考えが今の社会を作ったと考えています。
パスカルは人間を「考える葦」だと言いました。
考えることをやめれば人間はただの「葦」です。
思考停止は恥ずべきこと、わたしたちはもっと差別や人権を身近な問題として考えるべきだと思います。
「それでも夜は明ける」は最後に主人公が奴隷から解放されることで幕を下ろしますが、「それでも最後には夜が明けて幸せになれる」ではないと思います。
「それでも奴隷たちの夜は明けて奴隷たちの日々は続く」なのか「それでも差別の残る時代の夜は明けて差別は続く」なのか、さらに理由があるのかはわかりませんが、少なくとも良い意味合いではないことは確かだと考えています。