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親子関係に悩む人へ/わたしと父との関係2

人間関係
このページはわたしと父がどのような関係を経て、現在どうしているのか、その過程を振り返って綴るものです。
多少グロテスクな描写がありますので、苦手な方は読まないことを推奨させていただきます。

わたしと父との関係について、前回はこちら→https://harukams-medicalbeauty.com/father1/

今回は、わたしの暗黒時代の話になります。

余程忘れたいものだったのか、小学校高学年から中学にかけての記憶はほとんど抜け落ちていてあまり多くありません。それでも、もうこれ以上はいりません。

わたしが小学校高学年になる頃には、父はリストラされて家にいるようになりました。

今思えばFXだったり色々なのですが、部屋にこもって出てこないんですよね。

なのでわたしは小学生にして家事をほとんどしていました。

大人がいないと火は使ってはいけない、と言われていたので、

ガス給湯器のお湯を何度も入れ換えて菜っ葉のお浸しを作ったり、

たかがフライパンで焼けば良いようなものも、わざわざオーブンを使ったり。

洗濯に、掃除に、お風呂を沸かして、後片づけもして、父の世話(前回のお茶汲みの話とか)もして、小学校に通って、とても疲れていました。

唯一楽しかったのは、習い事の時間。

友達と一緒に喋って帰って、楽しかった。

それなのに。

 

帰りの時間を少し過ぎるにと、家の前で父が仁王立ち。

自分は勝手にいなくなるくせに、わたしが必要以上に外に出るのは許さなかったんです。

中学に上がる頃には、父だけが精神科にかかり鬱と診断を受けていたものの、

わたしと母も今思えば完全に鬱でした。

毎日自殺することしか考えられなかった。

毎夜繰り返される両親の喧嘩(というよりも父の一方的な怒鳴りと母の悲痛な叫び)から耳を塞ぐのに必死で、

父が「もういらない」(自分は新機種を買ったから)と渡してくれたiphoneにイヤホンを繋いで、

大音量で音楽を流して、

それでも聞こえてくるから耳を塞いで、

ふすま1枚隔てているから隠れる必要はないのだけれど、

怖くて、怖くて、縮こまって過ごしました。

 

父の異常さはますます増し、母はやつれ、わたしは自傷行為に走りました。

手がズタボロになるまで、コンクリートを殴り続けました。
皮膚が裂けて、血が滴り、中が赤を通り越して白いところまで見えました。
血が止まらなかったので、絆創膏を何枚も繋げて貼りました。
肌色だから、誰にも気づかれませんでした。
痛いので、おすすめしません。

そのときの傷跡は、治った今もわたしの右手に残っています。

学校ではひと言もしゃべらない日がほとんどでした。

友達と呼べる人は何人かいたのですが、わたしと関わると陰キャだと思われるので学内では関わらなかったし、

最後まで近くにいてくれた、小学生の頃から一緒に通学していた親友とも話さなくなりました。

わたしが「死ぬ方法」について尋ねたからですね。
たぶんあの子は返事に困ったんだろうな。一緒に考えてくれました。

そしてわたしはわたしで、死ぬのは止めてくれないんだね、と勝手にショックを受けました。

死にたいなんて言っておいて、本当に自分勝手ですが。

そして転機となったのは、本当に何でもないある朝のこと。

 

父が「あんたら、これから○○(母の実家)に住み」と言いました。

母は聞いていなかったようで唖然。

わたしは無反応。

後から聞いた話では、わたしが登校したあと両親は激しい口論になったそうです。

それはそうですよね。

母の実家なのに、母の許可も、誰の許可も得ずにそんなことを言い始めたら。

それからしばらく経ったのか経っていないのかは覚えていませんが、

いつもは帰宅の遅い母が夕方に帰ってきて、荷物をまとめるように言いました。

母の姉(伯母)が車で迎えに来てくれるから、必要なものだけもって母の実家へ行こう、ということらしく、とりあえず服などを持って、伯母の車に乗りました。

父のいない間に、家を出て、それからあの家に帰ることはありませんでした。

いわゆる夜逃げ?(^_^;

数日後、今度は伯父がトラックを運転して、ある程度の家具を持ってきてくれました。

どれを持って行っていいかは父と母で決めたのかなあ。わかりません。
ちなみに勝手に父がリフォームした分の修繕費は母が負担させられたそうです。ほんと勝手。

そして別居したその年の夏、離婚調停を経て離婚が成立しました。

自分から出ていくように命令したのに、出ていけば連れ去りだと主張する。これが父です。

こんな言い方をすると、「離婚まで想定していなかったのではないか?」という意見がありそうですが、それはその通りです。

父は、自分が病気を治して迎えに行くまで、母の実家で待っているように言ったんです。

わたしと母も病んでたと思うけどな…

だから母は、本当はずっと父の面倒をみるつもりだったんです。

離婚なんて考えていなかったんです。

それを、話を聞いた伯母夫妻が止めに入ってくれて、連れ出してくれて。

母が離婚に踏み切ったのは、父が

「俺が死ぬからお前らは俺の保険金で生きてくれ」

と言ったため。

離婚で保険金の受取人から外れて、父の命を守ろうとしたためです。

母はどこまでもお人好しなので。
わたしはというと、「自殺で保険金って下りるのかな? 方法によっては損害賠償とかの方が来るんじゃない?」と考えていました。
冷たい人間です。

わたしは鬱病について習ったし、今自分にも鬱症状がかなりはっきり出ているのと、

過去の自分と、そして専門家の意見をもらったので言いますが、

父は鬱病ではないです。

診断書が欲しかっただけです。

元々卑屈で皮肉屋なんです。

普段は優しい顔をしていても、怒ると手がつけられなくて、

罵倒、批判、平手打ちくらいは当たり前です。

きっと父がつらかったのは本当だと思います。それでも。

リストラの原因は、勝手だったから。

出張が多かったのは、行かされたのではなく、自分で勝手に行っていたんです。

そして一応仕事は取ってくるものの、経費を勝手に使うから同僚にも上司にも疎まれたそうです。

次の職場でも、母のツテで就職できたのに偉そうにして首にされた。

人から評価されること、お金を得ることに幸せを感じるタイプ。

まさに母やわたしとは逆の思想の持ち主でした。

そしてそこで縁が切れていれば問題なかったのですが、父の周到なところは、

わたしにだけ父と連絡のつく手段を残した

というところです。

このことが、後のわたしの十数年(まだ22年しか生きてないのに)を振り回します。

予想外に長くなってしまったので今回はここまでにさせていただきます。

次回は、

わたしと父が連絡手段をどう使い、

わたしが何をして、自分は価値のない人間だと決めたのか

についてお話しようと思います。

 

次話、更新致しました→https://harukams-medicalbeauty.com/father3/

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まぁるいせかい管理人
haruka(はるか)

多発性硬化症+名前も研究中の希少難病などを併発した23歳女子。京大医学部中退。仕事は小説家とライターとカウンセラーと極秘。
今の夢はお嫁さんと福祉用具開発プロジェクトの成功☆
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