痙攣の日
高度急性期病院に入院し、4回目の血漿交換を終えたあとのこと。
アナフィラキシーショックで意識不明の状態から目覚めた後のこと。
症状の改善はあまり見られない一方で、夜中に全身痙攣が起こるようになりました。
一般的に痙攣といえばバタバタ動くようなものですが、わたしの場合は「無動の痙攣」。
主動作筋とその拮抗筋が同時に激しく収縮することで「動かない」。
だから人から見るとただ寝ているようにしか見えないし、硬直と表現されることもありました。
筋肉が激しく収縮するだけでも普通痛いのに(足がつるとか)、
反対側の筋肉も収縮しているせいで縮むことができず、ただ筋肉がぶちぶちと引きちぎれるような、想像を絶する激痛。それが1週間続いた日のことでした。
痙攣するのは両脚と右腕。
左腕はたまに硬直を起こすものの、唯一思い通りに動かせる場所ででした。
多発性硬化症の運動障害で、主症状は脱力のはずなのに、わたしはその痙攣のせいで筋弛緩薬を処方されていました。痛み止めも処方されていました。
でもどちらも痙攣とその痛みに効果はありませんでした。
両脚と右腕は痙攣、左上肢にだけ筋弛緩薬が効いて、全く力が入らない。
要するに全身動かせない。
ただ毎晩、静かに涙を流しながら耐えるしかありませんでした。
ただ、痛くて、痛くて、痛くて。
こんなに痛くて動かない体なら捨ててしまおうと。
死にたかったわけじゃない。死にたいと思ったわけじゃない。
勇気なんていらなかった。
ただ逃げたくて、やめたくて、こんな激痛の日々を終わらせたくて。
楽になれると思ったわけじゃない。ただ本当に自分の体を捨てたかった。
逃げたかっただけだった。
自分がいなくなったあとのことなんて当然考えなかった。
悲しんでくれる人のことなんて、頭をよぎりもしなかった。
なぜ死ななかったのかって、道具がなかったことと、何より痙攣と弛緩で全身を動かせなかったから。単に実行に移せる体がなかったからでした。
夜が明けて、全身痙攣が解けて、冷静になってから自分のしようとしたことが怖くなって、母に電話しました。
母は泣きながら、死ななくて良かったと言ってくれました。
婚約者も、わたしがいなくなったら困ると言ってくれました。
ただわたしは、そんな風に言ってくれる人たちのことを1ミリたりとも思い出しませんでした。
わたしを大事に思ってくれている人、わたしの大事な人達のことを、全く思い出しませんでした。
ただ逃げたかっただけなので、勇気なんていりません。
わたしにとっては、生きる方がよっぽど勇気のいることです。
わたしは今勇気をもって生きているから、覚悟して生きているから、だから大抵のことはやれてしまうし、大胆なことでも言えてしまう。
痛みを知って、わたしは強くなりました。
あの激痛の日々に比べたらこんなのマシだからと、自分の中での基準が一気に変わりました。
でもわたしは、
諦めて惰性で流されて生きて、適度な幸せを感じて。
そんな生活で適度に満足して一生を終えたかった。
なのに、生きるのに勇気が必要になってしまった。
決断力が必要になってしまった。
母からそう言われます。それはそうです。
だって、そうじゃないとわたしはまた、大事な人を放り出して死へ進もうとしてしまうから。
自分の大切な人を傷つけないように、自分をこの不自由な体に縛り付けるのに、常に勇気と覚悟を要求されているから。
たぶん本当に死のうとしたときって、勇気とか覚悟とかいらないんです。
死ぬことの方が生きることよりも簡単になってしまったとき、人って簡単に死を選んでしまえるから。
どうして「死ね」と言ってはいけないか
だから死ねなんて嘘でも冗談でも言っちゃいけないです。
人を死に近づける言葉だし、言われた人やその人を大切に思う人達を傷つける言葉だから。
命がどうして大切か。
一つしかないからとか親にもらったからとか答えはいくらでもあると思いますけど、わたしも答えなんてわからないですけど、それでも。
その存在がたったひとつなくなるだけで、どれほどの人が悲しみ、傷つくかを考えないといけないです。
命の重みを考えないといけないです。
ありのままで、生きているだけで尊いっていうことを伝えることが、あの日この世に繋ぎ止められたわたしの使命だと思うので、改めて言います。
あまりにも生を軽んじている人が多そうなので書きました。ご意見などは下記フォームからお願い致します。
追記:ちなみに2020年5月22日、これを書いてから約1年半後に考えていることは、
「自分の命だ、自分で決めろ。悲しむ人のために生きる必要はない」
です。他人のために生きる苦しみを知って、考えが変わりました。
あなたの考えはいかがですか?