そう思ったことがある方は少なくないと思います。
今回はそんな方へも向けて、実体験から考えたことをお話しします。
感覚麻痺の体でできること
実は昨日、母から「毎日家事をやってくれているから、自分も働かずに家事手伝いをしていた時期には親からお小遣いをもらっていたしはるかにもお小遣いをあげようか?」という相談をいただきました。
「何もできなくてもいいから家にいてほしい」という温かい言葉から「家にいるなら家事をしろよ」という命令に変わっていったことを思い出すとわたしはとても嬉しくて、「お願いします」と即答しました。
いつから支払いが始まるかといったことは未定なのですが、それでも「家事をして当たり前」から「家事をしてくれている」へと認識が変わったことがとても嬉しかったのです。
そしてその喜びをツイートすると、こんな返信が届きました。
今回は 論点がずれているとか、それこそ不幸自慢みたいなことを言いたいわけではなくて、この感覚麻痺という部分に共感したことをお伝えしたいのです。
そもそも不幸自慢は存在しない
わたしも、今さら言うことではありませんが感覚麻痺があります。特に暑さ、熱さには鈍いです。
通院の度に外に出ますが、暑さを感じません。「今日暑いね」と言われてもわかりません。「そうみたいですね」とスマホの温度計を見ながら返します。
ただ陽に当たった肌が赤くただれるので、その痛みで「夏」を感じています。
痙攣が出れば、体が動かなくなれば、痛みが出れば暑かったのだろうとわかります。
でも料理では、火傷するまで熱さはわかりません。コンロで手を炙ってしまってもわかりませんでした。
先日沸騰した鍋の湯気で火傷をしてしまい手が赤い水ぶくれだらけになるという事件が起こりましたが、見た目に変化が起きて痛みを伴わないと、火傷の熱さにすら気づかないのです。
メリットだと思った
実はこの熱への耐性を、わたしはとてもいいことのように捉えていました。
なぜなら他の人が持てないような熱いものでも、わたしであれば熱さを感じずに持つことができるからです。
なので数年前ですが、妹がとても熱いものを運ぼうとしたときに「変わるよ」と言って持とうとしたことがありました。
するとそのとき、妹に
邪魔!どいて!
と言われました。
わたしは変わってしまった自分の身体を活かして妹の役に立ちたかっただけなのに、妹を火傷から守ろうと思っただけなのに、なぜ怒られたのかわかりませんでした。
大切なことに気付かせてくれた
妹が火傷しないと、もしくは火傷しても熱さを感じないとして、そんな妹に熱いものを持たせられるか?
答えは NO です。即答。
そんな火傷の可能性のあるものを妹に持たせる気はさらさらありません。火傷して欲しくないのです。
つまり、「妹が傷ついてまでわたしを守る必要はない」と思うわけです。
今考えていること
もう1年ほど前になりますがわたしはODを繰り返し、自殺しそうな少年へメッセージを送り続け止め続け、少年が受けていたいじめの加害者と「少年の希望で」直接やり取りしたことがあります。
そのときの話を含むいじめへの考察
※脅迫内容が内容だったために年齢制限を設けています
その際、わたしは加害者の少年から「この偽善者」との言葉を受けました。
それにわたしは「つまりあなたはわたしを善だと思ってくれているのですね、ありがとうございます」と返したことがあります。
「この偽善者!」と言われて
「あなたはわたしを善と思っているんですね、ありがとうございます」
と返したことがある。— haruka@ANAS難病障害の開発者&小説家 (@harukaMSPTS2) August 24, 2020
これに対し「偽善とは人の為の善と書きますよね」 とのお返事をいただきました。
なるほど確かに、と思いました。
ただ最近は「偽善」という単語は「表面上はいいことのように見えるけれど実は悪いこと」という罵倒や誹謗中傷でよく使われています。
ひとのために傷つくのは良いことか?
表面上「あなたのためにわたしが傷つく」ということは、身代わりなどが美徳とされてきた日本においてとても美しく見えるかもしれません。
でもそれは「自分を案じてくれている他の人の心をないがしろにする行為」です。
少し前にわたしは親のために死ねると思えるだろうかという記事を書きました。
実は「NICO Touches the Walls」というアーティストの「妄想隊員A」という曲にもこんな歌詞があります。
きみのためなら死ねると言った
僕は何だかだめだよ
歌詞表記は記憶より
誰かを救うために必要なのは?
よく言いますが、仏教では「生老病死の苦」。生きることも苦しみのひとつだと考えます。
なので「自分が死んだら悲しむ人がいるから、その人たちの心を考えて生きろ」とは言いません。
ただ生きている前提で誰かを救いたいと思うのなら、その「救い」には自己犠牲が含まれていてはいけないと思うのです。
これはわたしがよく言うことですが、
そう思うのです。
自分が誰かを救えるなんて思っていないわたしが、せいぜいできるのは寄り添うことくらいだと考えているわたしが、こうしたことを語るのはおかしいかもしれません。
それでも、「自分がいなければ」「自分が代わりになれば」そう思う方は一度考えてみてください。
「自分がどれだけ、ひとに想われているか」