「障害者なんていなくなればいい」
――犯人はそう言った。
そんな帯から始まる実話に見る現代社会の生きづらさ。
詩の全文
神戸金史氏の「障害を持つ息子へ」という本があります。
これは母が買ってきて、それとなく読むように話してリビングへ持ってきた本です。
実はわたしは、21歳の5月に全身不随になったものの同年9月には「動作は」ほぼ病前にまで回復しました。
首から下の触覚、温度感覚、脚の感覚をほぼ失い、夜間の痙攣や硬直は残りましたし、極度の不眠と精神面での不安定さも残りましたし、外で過ごすには3時間ほどが限界でしたが、それでも1時間で3キロ近く歩けるまで体力も歩行も一旦は回復しました。
ただ繰り返し病気が再発するうちに、視野欠損や右半身の硬直麻痺、歩行困難、呼吸困難…と障害が残りました。
母が障害者手帳を取る手続きをし、わたしが望んだわけではありませんが、現在は「右半身麻痺」として身体障害2級です。
本当は左脚もそこまで動きません。左手も最近特に硬直の時間が長くなっています。
なので、サブタイトルに「息子よ。そのままでいい」と付いたこの本を手に取るまでに1年かかりました。
母は「何もできなくてもいいから帰っておいで」と入院中には言ってくれたのに、今では家事をしないこと、寝ていることに文句を言います。
動こうと思って動けるのなら、苦労はありません。
この本には報道者である神戸金史氏が、2016年7月の相模原障害者殺傷事件について取材する中で、障害を持つ息子を思って書いた詩が社会にもたらした影響が書かれています。
まずはFacebookをはじめネットでも出回っている、詩の全文を引用いたします。
障害を持つ息子へ
私は、思うのです。
長男が、もし障害を持っていなければ。
あなたはもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。
私は、考えてしまうのです。
長男が、もし障害を持っていなければ。
私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。
何度も夢を見ました。
「お父さん、朝だよ、起きてよ」
長男が私を揺り起こしに来るのです。
「ほら、障害なんてなかったろ。心配しすぎなんだよ」
夢の中で、私は妻に話しかけます。
そして目が覚めると、いつもの通りの朝なのです。
言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。
何と言っているのか、私にはわかりません。
ああ。
またこんな夢を見てしまった。
ああ。
ごめんね。
幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。
いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。
想像すると、私は朝食が喉を通らなくなります。
そんな朝を何度も過ごして、突然気が付いたのです。
弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、
人をいじめる人にはならないだろう。
生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。
お前の人格は、この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。
お前は優しい、いい男に育つだろう。
それから、私ははたと気付いたのです。
あなたが生まれたことで、
私たち夫婦は悩み考え、
それまでとは違う人生を生きてきた。
親である私たちでさえ、
あなたが生まれなかったら、今の私たちではないのだね。
ああ、息子よ。
誰もが、健常で生きることはできない。
誰かが、障害を持って生きていかなければならない。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
私の周りにだって、生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。
生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。
交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、
雷に遭って、寝たきりになった中学生が、
おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、
嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、
実は私の周りには、いたはずだ。
私は、運よく生きてきただけだった。
それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。
息子よ。
君は、弟の代わりに、
同級生の代わりに、
私の代わりに、
障害を持って生まれてきた。
老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。
事故で、唐突に人生を終わる人もいる。
人生の最後は誰も動けなくなる。
誰もが、次第に障害を負いながら生きていくのだね。
息子よ。
あなたが指し示していたのは、私自身のことだった。
息子よ。
そのままで、いい。
それで、うちの子。
それが、うちの子。
あなたが生まれてきてくれてよかった。
私はそう思っている。
父より
社会のお荷物
英語や中国語にも翻訳されて世界へと出回った「障害を持つ息子を全肯定」するこの詩に対する反応として、憎悪・ヘイトの手紙がありました。
悲しみと恐怖と虚しさと
なぜ母がこれをわたしに読ませたかったのかは不明ですが、とにかく2つの点で悲しくなりました。
そして、そう考える人の心の貧しさに虚しくなりました。
わたしは中途障害者ですが、先天的に指定難病ではない希少心疾患があります。
喘息などの呼吸器疾患もあり、幼少期から夜中に救急搬送されたことがたくさんあります。
小学校の体育の授業や運動会で倒れたこともあります。
練習の足を引っ張るなと同級生に言われたこともありますしいじめもありましたが、小学生のときはかばってくれる友達の方が多かったです。
ところがいざ障害者手帳を持つと、ヘルプマークを付けると、障害者は死ねと言われます。
それが当然のように、正しいことを言っているんだとばかりに真正面から、
と言われます。これをわたしに言ったのは高校生です。高校生からこんな思想で、それを支持する人がいることが怖い。怖いです。
物を買えば消費税を払い、入院すれば入院費を払う。医療・福祉職の雇用を生む。
こうして経済を回すこともできるけれど、それでも
そんな社会なら、そりゃ死にたくもなりますよね。
ただでさえ申し訳ないです。車椅子を押してもらう度に申し訳ないです。脚があるのに、この歳で歩けないことに、申し訳なくて歯がゆくて仕方がありません。
見た目は健康です。入院しても「どこが悪いの?」と言われます。妊娠と間違われて「おめでとう」と言われたこともあります。
それでも病人で障害者なことには変わりありません。
医療福祉制度
健常者はよく病人・障害者に「医療費の無駄遣い」と「障害年金もらうな」と言います。
きちんと認められたシステムで、認められた範囲で利用しているだけなのに。
健常者よりもずっと医療費がかかって、支援がなければ生活が難しくなるのに。
それこそ死ぬしかなくなるのに。
「支援を受ければ社会のお荷物」と言われます。
それが、想像力の欠如です。
わたしは家事をしてライターに小説家をして、現在は企業様と新商品の開発について議論していますが、それでも障害者だからお荷物ですね。
謝らないといけないんですね。
ならもしあなたが障害者になっても、わたしのアイデアで完成した商品は使わないでくださいね?
「病人」「障害者」の枠組みで色眼鏡をかけて健常者と比較し差別することは、あまりに簡単です。
でもそれは、その人の持っているひとつの側面であり、その人すべてではありません。
またわたしは先程つらつらと自分のしていることを述べましたが、これはあくまで「やれ」と言われていることと「自分のやりたくてやっていること」を並べた結果です。
本当は、「何もできなくてもいいから帰っておいで」「何もできなくてもいいから生きていて」で良いはずです。
なのに。なんで。どうして。
ひとは生きているだけで価値があります。
ただ、その人が生きているだけで安心する、安らぐ、幸せを感じる、そんな人がいるんです。
それを、たった1点の「社会貢献」という曖昧な、恐らくは「働けない」という1つの意味のみで、
存在を全否定しないでください。
「障害者は権利ばかり主張する」
それは、主張しなければならないほどに障害者に「人権」がないからです。
障害者に限らず、病人も、生活保護受給者も、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人には容赦なく「生きている価値がない」との言葉が投げつけられるからです。
わたしは、それがとても悲しい。
綺麗事が通じない社会
「生きているだけで素晴らしい」なんて綺麗事だ。そう思う方もいらっしゃるでしょう。
あなたにそう思わせたのは誰ですか。何ですか。
病気ですか。障害ですか。それを発端にした、周囲の目ですか。社会風潮ですか。
きっとはじめから「そんなのは綺麗事だ」と吐き捨てることはなかったと思います。
わたしは「綺麗事」を嫌う人は、「生きているだけで他人に迷惑をかける。綺麗事は社会で通用しない」と考えているのではないかと思います。
その「社会」って何ですか。
残念ながら、「現代社会で支援を受けることの心苦しさ」と「病気・障害自体の苦しみ」は「働かなくてもお金もらえていいな~」と安直に思っている人には絶対にわからないと思います。
他人の苦しさを想像できず、僻んで勝手に羨むことしかできない人には、この苦しみはわからないと思います。
障害があると生きられない閉塞感
障害者を殺害した事件は、これだけではありません。
最近にもありました。その犯人について、著名な裁判官が言うには、
「彼(容疑者)は自分が無価値な人間となることを恐れた。だから彼や彼に同調する一部の人にとって「無価値」な障害者を殺害することで、社会にとって有益な人間になろうとした。彼は時代の子だ」
とのことでした。(インタビュー動画より抜粋)
そんなに障害者は悪ですか。
その善悪の基準は、何ですか。
病人・障害者の命の選別をし終えた次に行われるのは健常者間の命の選別↓
優生思想について
わたしは障害者の恋愛などについてのWEBページを作ったことがあります。
そのときに驚いた、というよりもショックを受けたのが、「障害者も人間です」から書き始めなければいけなかったことです。
誰もが加齢で動けなくなっていきます。筋力低下で動けなくなっていきます。
動けなくなった人間に価値がないのなら、動くロボットの方が価値があるのなら、
この世に人間はいらないと思いませんか。
これは極論ですが、人がみな神戸金史氏のように「君は誰かの代わりに障害を持って生まれてきた」と言ってくれたのなら、
障害者は、わたしは、ここまで苦しい思いをしなくて済んだ。
障害者として思う「人の価値」
人の価値は、障害の有無によって決まりません。
動けるか動けないかによって決まりません。
人の価値は自分で決めるものです。
しかし現状、障害者が「自分には価値がある」と思うことに邪魔が多いのも事実です。
上の高校生の発言以外にも、障害者としてのわたしへ投げかけられる言葉はあまりに残酷です。
一度、「この人は障害者」という眼鏡を外して、その人自身を見てみてはいかがでしょうか。
わたしは現在23歳という身で早くも多くの障害を負っています。
それはきっと、そのうちわたしが負うことになった障害を早めに負っただけです。
歯がゆさと悔しさで潰れそうになるときもありますが、障害自体を恨んではいません。
ただ健常者のみなさまに考えてほしい。
「障害者は悪で、いなくなれば世界は良くなると本気で思っているのか」
身近なストレスのはけ口が障害者なだけではありませんか?
障害者として思うこと
障害者にはできないことがたくさんあります。
でも、健常者でもできないことはありますよね。
わたしは健常者だった頃、50m走るのに10秒かかりました。9秒台では絶対走れませんでした。
けれど剣道で試合に勝つことはできたし、京大入試数学を暗算で解くこともできました。
「障害は個性ではなく障害」だと、わたしは障害者として考えます。
ただその考え方は「障害者自身」だからであって、健常者に「障害なんて個性なんだから」と軽々しく言われると苛立つからです。
本人が「障害は個性だ」と言わない限り、障害は障害です。
ならどう見てほしいのか。
何度も言います。
「障害者ではなく、1人の人間として見てください」
わたしは今でも重度心身障害者施設で子どもたちに絵本の読み聞かせのボランティアをしています。
そこでわかるのは、
内容は正確ではないかもしれません。それでも、伝えようと努力し、伝わったと感じたときには喜びを表現しようとしていることがわかります。
彼ら彼女らの寿命はあまりに短い。
だからこそいつも、彼ら彼女らの周りには幸せな世界が広がっていてほしい。
わたしの願い
世のため人のため、社会のために、障害者はいなくなればいい。
そう考える人は多いかもしれませんが、少なくともわたしは、
自分がこうして障害で苦しんでいるからこそ、他の人には幸せであってほしいと願っています。
今回紹介した本
- 神戸金史様:障害を持つ息子へ
- 紫乃遼:現代いじめへの考察
- 紫乃遼:君の声でわたしを呼んで