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【質問から話し合いへ進めるには?】相手を立てたまま議論する「想像力」|MS/NMO患者会より

リハビリについて

わたしは喧嘩がとても多い。

というと語弊がありますが、患者会や論文発表で質問して発表者を怒らせることがとても多いです。

Twitterではよく噛みつかれるのも事実ですが…

なので今回は、1月の患者会にて最も疑問に感じたもの3つを例に、それを他の先生と話してとても勉強になったことを共有します。

質問への回答と回答への疑問

事前に参加する患者さんから質問を募集していたようで、患者会ではそれに回答する時間がありました。

質問と回答①靴下を立ったまま履くには?

質問:靴下や靴を立ったまま履くにはどうしたらよいのでしょうか?

回答:

「片脚立ち→上げているほうの脚を振る→上体も揺らしながら振る→つま先にタッチできるようにする」

という運動を

「支えあり→支えなし」

と難易度を徐々に上げていく。

わたしの疑問①

股関節の柔軟性を上げればよいとの回答は安易過ぎでは?

 

質問と回答②スリッパがすぐ脱げないようにするには?

質問:スリッパやクロックスがすぐに脱げてしまう。どうすれば脱げない?

回答:

  1. アキレス腱を伸ばす
  2. ランジなどの筋トレで下腿三頭筋を伸ばす
  3. ストレッチボードなどで足首が上がるようやわらかくする

ストレッチボード↓

わたしの疑問②

柔軟性だけを重視して、足趾の伸展筋を鍛える必要はオール無視して大丈夫なのか?

 

質問と回答③どうしても床に座ってしまったら?

質問:床に座ると大変だし床にできるだけ座らないようにしているけれど、それでも床に座ってしまったときにはどうしたらよい?

回答:椅子などに両手をついて、次に片膝を立てて立ち上がる。

わたしの疑問③

それができたらそもそも質問しないのでは?

 

わたしの体験と考え

わたしは診断時の段階でかなり脳に炎症があったうえ、1度全身不随にもなっています。

そのため上の質問のような経験があり、そして恐らく、だからこそ先生の回答に違和感がありました。

わたしの経験上の違和感①

片脚を振る運動の反復で鍛えられる筋肉はさておき、

「靴下や靴を立ったまま履く」には

  • 反対側の安定性
  • 履く側の
    • 足首を下に向け(底屈)
    • それをキープし
    • 履けたら足首を上げる(背屈)
  • 両手で靴下を持つ
  • 靴下を引き寄せる

動き、能力が必要です。

そしてわたしは今もこの「靴下や靴を履く」動きに苦戦していて、立ったままはレベルが高すぎて無理です。

だからこそ「脚を振って体幹を鍛えて、柔軟性も確保したら履ける」との回答に疑問を覚えました。

 

だってつま先を靴下や靴のはき口に入れるコントロール能力がないもの!

 

わたしの経験上の違和感②

スリッパやクロックスがすぐに脱げないようにするには靴の中で「足のゆびを上げて引っ掛けておく」必要があります。

つまり足趾の伸展筋、足のゆびをぴょこっと上げ続ける筋肉を鍛える必要があります。

それをオール無視して「柔軟性に特化」した回答は大丈夫なのか?

 

柔軟性がいくらあっても、力がなければ履いて歩くことはできません。

実際わたしはクロックスを履きますが、車椅子に乗っているだけだから履けるのであって、歩けません。脱げます。無理です。
諦めではなく、挑戦結果として

 

その現在も続いている実体験が違和感を色濃くしました。

 

わたしの経験上の違和感③

床からの立ち上がりは、人によってはかなり危険な行為です。

たとえば人工股関節を入れていると、脱臼して再手術になる危険性があるので「90度以上股関節を曲げないように」と指導されます。

この角度は人によります

 

人工股関節もですし、わたしのように脚に麻痺を抱えていても同じように毎回転倒の恐れが付きまといます。

ここではわたしがどうやって立ち上がっているのかの説明は省きます

 

そんな時に「椅子を使えば」と言われても自明なんですよね。

 

椅子に両手をつけるなら苦労しません。

両腕に力が入るのなら苦労しません。

なにより、その姿勢で膝を出すことができるのなら、マジで苦労しません。

 

出せないんですよ!!

 

わたしは質問した人ではないのでその人の状況はわかりかねますが、少なくともわたしは椅子に両手をついたら膝を出せない(両手をつきながら片膝立ちできない)人間です。

左腕で左足を引き上げないといけないので

 

ついでのように紹介された「床から座面レベルに引き上げてくれる電動椅子」でとりあえず納得感はありましたが、

 

 

 

 

質問への回答には「そうじゃねえよ感」が残りました。

これもキャスター部分まで下がりはしないですしね…

 

わたしが反省していた点

実はこれ以外にもわたしはたくさんの質問をしていました。

中でも「エビデンス」を求める質問をし、その際に理学療法界の権威である先生の名前も出していました。

序盤の説明でこの患者会に来てくれた先生はかなりプライドが高いとわかったので、あとから思えば

「あの先生の名前を出したのがまずかったのかな」

とは反省していました。

 

そこで、セラピスト界にいる先生と、福祉界にいる先生2人に相談してみました。

「穏便に質問する方法」

ちょっと笑えますが、真剣に相談しました

 

指摘された点

まずはセラピストの先生のお話。

 

客観的には、先生にわたしを言い負かす説得するだけの知識や力量があれば良かった。

でも相手は変えられない。自分が変わるしかない。

自分が変わる、というか、馴染まなければならない。

自分の想像力で相手の言いたいことをより深く考えて、相手との食い違いがどこで発生しているのかを考えなければならない。

そして「自分の意見を相手に言わせること」が目的になっていないかは、常に考えなければならない。

頭の回転が速くないとできないけどね笑

 

そう言われました。

そこで前日にもらっていた福祉界の先生の話を伝えました。

 

福祉の先生の意見

馴染まなければならないことはない。

自分は自分、それで良い。

はるかさんははるかさんの生き方を貫けば良い。

 

「そしてわたしもそう思っています」

そう伝えたところ、セラピストの先生は「馴染む」についてとてもよく教えてくれました。

 

それに対する先生の意見

誰もが自分の生き方を貫くようにしか生きられない。

だからこそ、相手が何を言いたいのか、自分が誤解して解釈していないかを疑い続けなければいけない。

馴染む、変わるとはそういうこと。

自分の意見を曲げるのではなく、相手を誤解していないか考え、そして相手にも相手の生き方があるのだから、自分の意見を押しつけないようにすること。

それが「質問」で、お互いにそれができたならとても有意義な「話し合い」になる。

 

わたしが患者会で抱いていた先生への印象

正直なところ、わたしは患者会の先生にそこまで期待していませんでした。

その理由は序盤1時間を割いた自己紹介と理学療法界の説明にあります。

 

先生の権威性についてとても長かったその内容は、ここでは省きます。

 

最も嫌だったのは、「アメリカよりも日本の方が理学療法士が多い」との説明でした。

 

まず、アメリカと日本とでは理学療法士の免許取得に大きな差があります。

日本では専門学校なら早くて3年で取得できますが、

アメリカでは大学を卒業したのちに専門課程に入り、最短6年は学ばなければなりません。

そのためアメリカのなりたい職業ランキングのベスト10に理学療法士は常に入っている(2015年情報)状況です。

 

アメリカの理学療法士は日本での医師に相当します。

学費もかなり違い、アメリカの理学療法学生と話した際にはギャップの多さに驚きました。

 

という違いを無視して「多いからアメリカより優れている」と言われても、

「いや、違うから」

との感想しかなく。

 

そして質問と回答の時間に上のような違和感があり、

悪い言い方をすると「なんだこいつ」
良い言い方をすると「患者のことわかってる?」

との思いが膨らんでいました。

 

「年に多発性硬化症患者を何十人も診るから」と豪語する割にはわかってないんじゃないの?

これがフリーの質問タイム以前にわたしが先生へと抱いていた正直な印象です。

 

本当にわたしが聞きたかったのは

かといって質問したからには先生を舐め腐っているわけではなく、きちんと「知りたいことを知るため」に質問しています。

それだけ権威のある先生なら知っているんじゃないか?と多少期待して質問しています。

だから途中から先生が「どうしたらわたしを黙らせることができるか」に移ったのは悲しい限りでした。

振り返ればそうなるのも当然だとは思いましたが

先生が予想していたのは

先生は忙しい時間を割いてスライドを作り講義し、きっと感謝される患者会を望んでいたのかなと思います。

少なくともリハビリを学んだ学生や現在もリハビリの分野で働いている人が参加するとは思っていなかったでしょうし、

まあたとえいたとしても知識ギリギリを攻める質問をするとは予想していなかったはずです。

セラピストだって難病にかかりますからその予想は甘いとしかいえませんが、

それでも当然といえば当然です。

だって健常者だもの。

セラピストだもの。

「診る側」だもの。

わたしだって自分が患者になるとは思ってもいませんでしたから、ましてや数十人程度しか集まらない患者会にセラピスト出の人間が数人いるとは思わないはずです。

 

わたしが先生に望んだのは

わたしが先生に「わたしの言いたいことを言わせようとしていなかったか?」と振り返って考えれば、それはなかったとは言えません。

「こういう論文がありましたが、実際にはどうなんですか?」

「こんな論文を以前目にしたのですが、最新ではどうなっているんですか?」

現在も最前線にいる先生だからこそ答えてほしかったことや、うなずいてほしかったことがあるのも事実です。

 

ただそれ以上に、わたしはもっと、

先生に患者の苦悩を想像してほしかった。知ってほしかった。

患者が日々悩んでいることは、そんな簡単な理論で解決しないとわかってほしかった。

 

理論と実際とは違うと、知ってほしかった。

 

わたしが勉強して勉強して、それでも残酷な現実の前で知識は無力だと打ちひしがれたように。

 

知識の無力さを知ってほしかった。

 

つまりわたしは「患者会」を「先生への訴え」として利用してしまっていたのです。

それでは先生に忌避されて当然でしょう。

先生は教えるつもりで来たのであって、教えられるつもりで来てはいません。

完全に場所を間違えています。

それならわたしの講演会でも開くべきだったのです。

 

  • ひとへ説教すること
  • 新しい知識を得ること

この2つはどちらも「快楽」を感じることです。

質問と称して快楽を得ようとしていたのでは有益な話し合いができるはずはありません。

ましてやそこに相手への想像力などあるはずもありません。

 

最後に

わたしは「想像力の欠如」を常々訴えながらいつの間にか自分にこそ欠如していた想像力について反省し、

わたしがいくら「この人には想像力が欠如している」と感じたとしても「想像力を養え」と相手に強制することなく、

自分をひたすらに疑い、自分の行動を省みながら、

慎重に行動していこうと思いました。

まあTwitterは思ったことを言いますが( ´∀`)
だってそういう場だもの。

ただリプライについてはとても考えることになりそうです。

以上、反省と決意表明でした!

ご覧いただきありがとうございます!

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