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「他人を変えるより自分が変われ」は自分を変えたくない人の言い訳では?|「今の傷ついた」指摘が通じない例

考察

多くの自己啓発本でいいます。

 

「他人は変えられないから、自分が変われば良い」

 

わたしはこれに疑問を感じてきました。

 

  1. 「自分」の個性を潰して相手に迎合する人間にならないか?
  2. 相手が変わる度に自分が変わる苦労をしなければならないのか?
  3. そもそも「自分が変われ」という言葉自体が相手を変えようとしているだろう?

この3点です。

ちょうどこの言葉を投げられ大変困った経験をしたので、この際考えていきます。

 

個性を潰す?

1つ目の疑問「自分の個性を潰して相手に合わせてばかりの人間にならないか?」と自己啓発本の著者に尋ねれば、恐らく本の主旨から推測するにこんな答えが返ってくるでしょう。

「相手の意見を『そんな意見もあるなあ』と聞き流せば良いのだ」

 

ただこれを極端に言い換えると、

「自分の意見はそのままで、その場だけ相手に合わせれば良いのだ」

となります。

 

相手の顔色をうかがって生きる、少なくとも「嫌われる勇気」なんて本が爆売れした現代においては「生きづらい生き方」に分類されるものではないでしょうか。

 

相手によって変える?

2つ目の疑問は1つ目の疑問があればすぐに湧いてくる、「相手によって自分を変えなければならないのか?」です。

恐らく著者ならばこう言うでしょう。

「汎用性があるように変われば良い」

 

さてこれを極端、というかわかりやすく言い換えると、

「さまざまな人に共通する点を見つけて、それに対応できるように変われば良い」

 

ガチで個性を潰しにかかっていません?

人に共通するもの、感情なんてかなり絞られてきます。

そこに対応する人間になれというのは、汎用型ロボットのように決められた応答をする人間になれ言っているのと同義でしょう。

 

「自分を変えろ」が他人を変えている

「他人は変わらないんだから自分を変えなよ」

その言葉自体が「他人を変えようとしている」との指摘は今までにもたくさんあったでしょう。

 

そもそもわたしがこのページを書き始めようと思ったのは、ちょうど最近この台詞を言われたからであり、下のように宣言したからです。

直接載せて良いかの許可取りが間に合わなかったので、引用からご覧いただければと思います

 

まずは手っ取り早くその最近の体験からお話しします。

 

「傷ついた」が通じない例

ただの喧嘩、と思っていただいても良いのですが、まあわたしは知人と喧嘩しました。

妹的にかわいがっていた相手です。

 

何がきっかけだったのかは激怒しすぎて忘れたのですが、そこでわたしは相手から「わたしの身体的欠陥・障害」に結びつくと「わたしが感じること」を言われ、

「今わたしは傷ついた!」

と言いました。

すると返ってきたのは、

 

「傷ついたのはあなたの問題であって、私は関係ない」

 

という身も蓋もない言葉でした。

 

あまりの衝撃に、一瞬相手が何を言っているのかわかりませんでした。

相手はとても優しく解説してくれました。

 

「あなたが傷ついたのは、あなたが勝手に地雷を抱えているからだ」
「あなたが勝手に傷ついただけだ」
「あなたの地雷は多すぎる」
「それを傷つけないように気遣うのに疲れた」
「私は私の思ったことを言う」
「傷つくのならはじめから聞かなければ良い」
「Twitterでも嫌なツイートはスクロールすれば消える。わざわざ『あなたのその意見嫌です』なんて返信しない」
「私の言葉もスクロールと同じく聞き流せば良いんだ」

 

さて、あなたはこれを見てどう感じましたか?

 

わたしは、

「わたしの地雷はすべて病気や障害に由来している」
「あなたのように健康な人が悩んでいるなら、地雷を捨てられるだろうし捨てれば楽になるだろう」
「けれどわたしの病気は捨てられない」
「捨てられるならとっくに捨てているし、好きで苦しんで障害者なわけじゃない」
「先回りしてとは言っていない。『傷ついた』と明言したのだから、その言葉を今後遣わないくらい配慮してくれても良いんじゃないのか」
「『傷ついた』と判断できる段階である程度は聞いてみるしかない」
「わたしとあなたは違う」
「そういう生き方は、自分は楽になれても他人の気持ちを踏みにじる人間になる」

と答えました。

 

ちなみに「機能不全家族・毒親」に関する著作で有名な加藤諦三氏も「自分の心をしっかり守る方法」という著作の中で意外にも

「不幸なのは身体的な障害をもつ人である」

(精神障害や精神疾患、その他「体は健康なのに悩み苦しむ人」と比較して)

と、身体障害について述べています。

この言葉が言葉だけに身体症状を抱えるお仲間さんにはあまりおすすめできない本なのですが(-_-;)

 

ここで精神疾患と身体疾患どちらがつらい論争はさておきます。

どちらも相互に作用するものですし、簡単に解決するものでもないでしょう

 

閑話休題。

わたしの主張を伝えても、相手は「傷つく側が悪い」と譲らなかったわけです。

「私は何も変えるつもりはない」と言ったわけです。

そして

「相手は変わらないんだから自分が変わるほうが早い」
「だからあなたが地雷を捨てれば良い」

とのたまったわけです。

 

はい!平行線!

 

一応「はいはい理解した」とは言われたのですが、

わたしにとっての「理解する」は「傷ついたことを知って今後同じことをしないように努力すること」です。

それを伝えると、

「それが理解なら理解できないし、しようと思わない」

と言われました。

 

理解する気のない人に言うことは何もありません。

 

精神神経科にて

この件は一応前回の精神神経科でも相談しています。

先生からは、

「なかなかド直球なことを言うね」
「スクロール…する段階でちょっと見てるからね」
「変わる気はないのか…」

その他、他人のつらさを汲むことへの討論みたいなことになったのですが、先生もかなり驚いていました。

 

「傷ついた」と伝えること

「傷ついた」と伝えることはとても大切です。

相手は意図的に傷つけたわけではなく、「傷つけた」こと自体に気づいていない場合もあります。

これは自分も同じで、知らず識らずのうちに相手を傷つけている場合もあります

 

ただ、伝えればすべて解決するかとそれは別問題です。

 

相手と自分とで何が傷つくのか、地雷になるのかを伝え合い、それを避けることは相手と親しくするうえでとても大切になります。

しかし相手が親しくするのを望んでいない場合や自分を曲げるつもりのない場合は、こちらがいくら頑張って伝えても徒労に終わります。

コミュニケーションは相互の努力だなあと感じる点です

 

「他人を変えるより自分が変われ」は自分を変えたくない人の言い訳では?

自分を変える気がない人ほど「他人を変えるより自分が変われ」と言います。

確かにその台詞を口にするまでに、自分は変わったのでしょう。

実際いろんな人を見ていても「変わったなあ」と感じますし

 

ただ残念なのは、変わった今の自分が完成形だと思い込んでいることです。

 

今回のわたしの話相手も、難病にかかったわたしへの対応に相当思い悩んでくれた子です。

だからこその「傷つけるか予想に疲れた」で「思ったことは言う」今の姿への変化なのでしょう。

その子に関してはとても納得しているのです

 

ですが「わたしはもう変わったから次はあなたが変わる番だ」というのは考えや人格の押しつけですし、全員が同じように「自分にとって楽なように」生きていたらコミュニケーションは崩壊します。

 

また「相手が勝手に傷ついただけ」という発想は、より大きな規模で考えるといじめなどでの「被害者にも責任はある」理論にもつながります。

 

「被害者がスルーできなかったから悪いのですか?」
「被害者が『傷ついた』と言わないから悪いのですか?」
「言っても聞き入れてもらえない例だってありますが、それも被害者の責任ですか?」

 

こう言い替えると、なぜか「他人を変えるより自分が変われ」理論が悪いように感じるから不思議です。

 

人間死ぬまで成長です。

変わりゆくものです。

今はそう思っていても、今後も同じ考えで生きていくとは限りません。

 

「他人を変えるより自分が変われ」

そんな自己啓発本を出す人は、自分の考えを「販売部数」などの目に見える形で「正しい」と認めてもらった実感がほしいだけでは?

そうわたしは考えます。

自己肯定感の低い人なのかなと。

もしくは「愛され欲求」の強い人ですかね。

「変わって楽になった自分を見てくれよ!」

「その通りにやってみて、変わった自分が正しいと証明してくれよ!」

そう必死に呼びかけている気がします。

 

変わりたい人は変われば良い。

変わりたくない人は変わらなくて良い。

好きなタイミングでだけ変わっても良い。

 

好きに生きろ。Live Freely。

今回は親しい相手だったので「他人を思いやれなくなるぞ」なんて心配もしましたが、わたしは基本的にそう思います。

みなさまはいかがですか?

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