教養とは、
「ちょっと何言ってんのかわかんないっす」
に対して
「サンドイッチマンかよ」
と笑えることだと思う。
または、
だと思うし、
「泥になって寝てた」
に対して
「疲れ過ぎか?」
と心配できることだと思う。
教養とは
と、名前は覚えていないけれど多分偉い人がそう言っていた気がする。
ところで大学には「一般教養」という科目がある。
何を習うのかというと、専門科目や語学以外、理科や社会や数学や国語(論理学)など、これまで「5教科必修」とされてきたものだ。
その「必修」が、一気に「人生にいらないもの」に詰め込まれる。
深く学ぶとすると専門科目に分類されものもある。
ただそれは薬学や理学や医学、法学などで、必修だったものではない。
一般教養は卒業するために取らなければいけない単位として、仕方なく授業を取る人がとても多い。
けれど、手に職をつけるために必要なのは専門科目だとして、他人とコミュニケーションを取るために、つまり職に就けたとしてもその環境の中で生きていくために必要不可欠なのはこの一般教養だと思う。
社会で生きていく上で専門知識よりも必要なのは、一般教養だと思う。
なぜ一般教養が大切か?
なぜ一般教養が必要なのか。
たとえば上のサンドイッチマンの例では、
- サンドウィッチマンという芸人のコンビがいること
- サンドイッチマンは「ちょっと何言ってんのかよくわかんないっす」というセリフをネタとしてよく使っていること
を前提として知っており、
- わからないことがあった際
- 茶目っ気を交えて伝えるために
- 「ちょっと何言ってんのかよくわかんないっす」というセリフを引用した
という
がなければ「サンドイッチマンかよ」とお笑いで済ませることはできない。
このネタを真に受けたとすれば、
- 「その言葉遣いはなんだ」
- 「わからないなら聞けよ」
- 「わからないで済ませるな」
など、たくさんの怒りポイントが生まれるはずだ。
だからこそ、この笑いありきの会話が成り立つ段階で
と推察できる。
会話ひとつで発言者の意図と聞き手の受け止め方、そしてその2人の間柄まで推測できるのだ。
これはとてもすごいことだろう。
しかしサンドイッチマンという芸人がいようがいまいが知らなくとも、恐らく人生に一切支障はない。
わからないときに「何言ってんのかちょっとよくわかんないっす」という礼儀を欠いた返しが必要な場面もほとんどないだろう。
だからこれは対人関係、こと会話において「いかに ユーモラスな返しができるか」という点でしか役に立たない。
これは必要のない人には本当に必要がない。
ただ、こうしたユーモアが役に立つかもしれない可能性は否定できない。
上の例に戻ると、
というセリフは
- 天下一品というラーメン屋さんがある
- 天下一品はこってりラーメンをウリにしている
という知識がなければ出てこない。
というセリフは、
- 「泥のように眠った」という慣用句の知識
プラス
- それを上回る眠りを表す言葉として「泥のよう」ではなく「もういっそ泥そのものだった」という慣用句すら変える言葉の遊び心
がなければ出てこない表現だ。
そして疲れすぎを心配する側にも、
- 元々の慣用句の意味
- 慣用句を変えてまで伝えたかった意味を推測する力
がなければならない。
慣用句を変更するなんてことは、人生で一切必要がない。
正しく辞典通りの言葉遣いをしていればよい。
また慣用句を変更する人間がいなければ、変更された慣用句の意味を類推する必要も生まれない。
要するに、言葉を変更することで無駄な脳の働きを発言者側と聞いた側とに促している。
本当に無駄でしかない。
余計に糖分が欲しくなってチョコレートを食べて太る可能性のほうが高いかもしれない。
教養は人生を豊かにするか?
こんな無駄で人生が豊かになるか。
きっとならない。
無駄に脳が疲労するだけだ。
しかし1点だけ、少し、ちょっとでいいから1mmだけ、考えてみてほしい。
「この会話は本当に無駄なのか」
無駄であふれる社会にて
人生は無駄であふれている。
なんなら社会は無駄であふれているし、世界は無駄であふれている。
給料をもらいつつ食べ散らかして、残りは廃棄だ。
何度「貧しくて困っている子どもたちに食べ物回せや!」とテレビにツッコんだかわからないほどに、ああいったバラエティは無駄に見える。
過剰包装しなければ「衛生面は大丈夫なのか」とのクレームに結びつく。
ゴミの受け入れを行った国では、貧しい子どもたちがお金になるものを必死で探している。
そんなことすらわからない無駄に行き過ぎた資本主義概念で、この世はあふれている。
共産主義を唱えたマルクスですら、「本物の共産主義が実現されたことはかつてない」と言った。
ヒトラーのせいでイメージの悪い共産主義だが、「富のある者から富なき者へ分配する」という共産主義の思想自体は、貧困層にとってそこまで悪いものではない。
ただかつて実現された共産主義は、そこに階級制度を伴うものだった。
「この階級であればそこまで富を取らない」
それは本当の共産主義ではなく、本当の平等ではない。
共産主義には常に、階級制度という無駄がつきまとった。
「ユーモラスな会話」は「無駄」か?
ここで閑話休題したい。
「無駄ではない」とわたしは考える。
なぜなら、これらの会話が成り立つためにはたくさんの知識を必要とする上、発言者に対するたくさんの想像力を必要とするからだ。
それを考えることは、人間同士会話する上で決して無駄じゃないと思う。
世の中には無駄があふれている。
けれど
- 自分に投げかけられた言葉について考えること
- 相手を案じること
- 一緒に笑うこと
これらは決して無駄じゃないと思う。
人間関係の基本は言葉だ。
それは人類が言語を獲得してしまったから。
言語を獲得していなければ、「この鳴き声はこの合図ね!」なんて簡単なものだったかもしれない。
類人猿時代に生きていないわたしは、それを想像するしかない。
ただ言語を獲得したことで、抱く複雑な感情をより詳細に伝えられるようになった。
それは事実だろう。
そして社交辞令やオブラートに包んだ表現が生まれ、人間関係疲れするようになったのも事実だろう。
人間関係と会話
しかし根本に戻りたい。
言語は手段だ。
そこへウィットに富んだ表現を混ぜられることは、笑いに富んだ表現ができることは、相手を笑顔にする手段ではないだろうか。
心地よいコミュニケーションを取る手段ではないだろうか。
え?何を言っているんだだって?
ちょっとよくわかんないっす。