この内容を公開するにあたりとても迷いましたが、「産前のDNA鑑定で障害があるとわかれば堕ろしてしまえばいい」「障害者なんていなくなればいい」との声にふれる度にとてもとても悲しくなったので、今回だけ書こうと思いました。
これはわたしの子どもについての話です。
わたしの子どもは障害児である可能性が高い
わたしは「妊娠した場合、子どもが障害を負う可能性が高まる」副作用のある薬を常用しています。
また遺伝的な可能性も否定できず、この子は障害をもって生まれてくる可能性が通常妊娠よりも高いです。
妊娠かもしれないとは思っていたものの病院へ行く機会もなく、確証がもてたのは先週末でした。
その頃にはもう妊娠してからかなり経っていたようで、産婦人科医が昔の主治医(多発性硬化症の専門医)に連絡もしてくれたところ

胎児への影響を考えて薬の調整をするには手遅れだ
と言われました。
思い返せば恐らく妊娠期間だろうという間に
- たくさんの薬を飲み
- コロナにかかり
- 大量のステロイド投与があり
- 大量のカフェイン・刺激物摂取をし
わかっていなかったとはいえ、今思えば反省しかないような生活をしていました。
わたしの事情、そして旦那の事情も知っているからこそ改めて思うのですが、
「この子は障害をもって生まれてくる可能性が高い」
わたしは子どもが障害児でも「愛せる」か?
わたしは右半身麻痺を中心に左足の軽度運動麻痺も抱えています。
そんな自分も満足に動けない状態で、わたしはこの子が障害児だったときも世話をしきれるのか。
激しく疑問でした。
「愛せないならそもそも生まなければいいじゃないか」
毒親育ちがよく言うセリフを、複雑な家庭環境なりに今まで子ども目線で受け取っていたわたしは、初めて親としてこの言葉に直面しました。
妊娠検査薬で陽性反応が出て、病院へ行くまでの期間にちょうど「八日目の蝉」を観ました→レビュー
あのときはまだ検査薬で陽性だっただけで確定診断ではなかったので、ただ「共感」としか書けなかったのですが、
- 自分はまともに両親のいる家庭で育っていなくて
- 大半のクラスメイトの話すような家とは違って
- 親をひたすら憎んで生きていて
- この子にどうやって愛情を注げばいいのかわからない
自分がされたように、するわけにはいかない。
それとこの時期つわりが酷すぎて水すらも口にすれば吐くようになっていたので、とにかく自分の体がしんどいのがつらくてつらくて、それでも仕事が決まりかけていた時期で、妊娠したこと自体も手放しで喜んで終わりにはできなかった。
そんな子を、愛せるのだろうか?
ちょうどそんなことをぐるぐる考えていた時期に「八日目の蝉」を観て、単純に好き嫌いで考えたときに、
- わたしにも旦那にもはじめから「中絶」の選択肢は頭になかったし
- どう育てればいいかわからなくてどう愛すればいいかわからなくても産むつもりだったし
- 純粋にこの子を好きだと思った
わたしのなかで「愛せるか」はもはや問題ではなくて、「もう好きなんだけど、わたしはこの子に見合う親になれるのだろうか」が問題なことに気がつきました。
「もし障害児だったら…」に「違うかも」や「考え過ぎ」はいらない
もしこの子が障害児だったらどうしよう、と言えば大体は「そうじゃなくて健康に生まれてくるかもしれないから」とか「考え過ぎてもよくないよ」と言われます。
違います、そこは問題じゃない。
と言うと「この励ましに何か問題が?」と思う人はたくさんいるのではないかと思います。
健康神話はいらない
今まで健康に生きてこられた人に言われがちなのですが、ぶっちゃけわたしはこの子が障害をもとうがもたまいが、病気をもとうがもたまいが、どっちでもかまいません。
- 先天的に障害があった
- 後天的に障害をもった
- 先天的に病気があった
- 後天的に病気をもった
- 先天的な障害があとからわかった
- 先天的な病気があとからわかった
こういうことはとてもありがちなことで、奇遇にもすべてに当てはまるわたしからすれば、
「人間いつか病気になるし、WHOが『老化は病気だ』と言う時代なんだから、みんな遅かれ早かれ病気になって障害を負う」
と思います。
ただそれが赤ちゃんのうちだと急に
「可哀相に」「こんな小さいうちから」
となります。
そうやって憐れんだところで治るものならいいですが、現実は治ってくれません。
わたしはこの子に、憐れまれるよりも幸せになってほしい。
健康じゃなくても、元気であってほしい。
障害がないのがとてもありがたいのはまあ事実だろうけれど、障害があるからといって「健康に生まれてこられればよかったのに」なんてセリフをこの子に聞かせたくない。
だから、「障害はないかもしれない」という励ましはとても、健常者贔屓で障害者を憐れむだけの言葉に感じて嫌なのです。
「考えすぎても?」備えあれば憂いなしと言うじゃないか
「もし障害があったら、わたしでもお世話できるのかな」とわたしはこの子が障害児だった場合のことも考えますが、「考え過ぎると本当にそうなる」だとか「母子の健康によくない」と言われます。
「母子の健康によくない」はありがたく受け取るのですが、「考え過ぎると本当にそうなる」と言われても、
むしろ健康優良児で生まれてくる可能性以外を一切考えずに、生まれたとき「実はこんな問題が…」と言われるほうがめちゃくちゃ問題が山積みになるじゃないですか。
まず心意気や覚悟から始まり、面倒をみてくれるところを探し、該当制度や頼れる人を探し……と、産後の直後にやる元気(と見つかる環境)が自分のあるとは思えません。
今でさえハイリスク妊婦指定を受けていて、転ばないように必死になる日々です。
お世話をしながらなんやかんやと作業する余力は、たぶんないでしょう。
先にいろんな可能性を考慮しておいても、別にいいじゃないですか。
そこに余計な励まし(めいた「健康に生まれることだけ考えてろ」という命令)はいりません。
「障害児は生まれるまえにころせ」の優生思想
わざわざ子どものことを公開しようと思ったのは、はじめに書いた通り
「障害がわかったら産まれる前にころしてしまえ」
「そうすれば障害者が減る」
「中途障害者がいるから障害者自体はいなくならない」
「それでも障害児を生まなければ障害者は減る」
と平然と語られるからです。
これを言えるのは妊娠したことのない女性か男性ではないかと思うのですが(もしくは医学的知識とはまったく無縁な人や中高生など過激な遊びが好きな世代か)
ぶっちゃけ誰でもいいのですが、
少なくともお腹のなかで動く子どもを感じたことがあれば、簡単に「中絶」や「ころせ」なんて言葉は出てこないかと。
お腹のなかにいる段階で、もう赤ちゃんはひとつの命です。
簡単に「中絶」「ころせ」とは言うけれど、それは赤ちゃんを子宮内でぐちゃぐちゃにしてかき出すことであって産後に同じことをしたらバラバラ殺人だし、子宮内にかなり危なめの棒を突っ込むので母体へのリスクもあります。
関係ない人が「税金を使われるのは嫌だ」とかの理由で「中絶しろ」「ころせ」「障害者はいらない」と叫びますが、そういう罪の意識を背負うのはすべて親で、身体へのリスクも背負うのは母親です。
外野から言葉の暴力を浴びせるだけの立場は、さぞ心地いいでしょう。
わたしはそんなことも知らないでただ障害をもつだけの子にうだうだ文句を言う人のいる汚い世界にこの子を生むのが、とても嫌です。
「じゃあその子どもを堕ろせばいいだろ」
違います。
わたしが好きなのはこの子であって、どちらかといえばギャーギャー言う外野のほうがどうでもいいです。
わたしの優先順位はこの子のほうが圧倒的に上です。
障害児だろうがただ幸せになってくれればそれでいい
わたしはこの子がお腹にいるとも知らずにコーヒーも紅茶も飲んだしコロナにもかかったしステロイドもたくさん飲んできたけれど、この子はけっこう強く育ってくれています。
エコー画像を見ました。
顔は旦那に似ていそうです。
背骨ががっしりして、肋骨もしっかりありました。
わたしがいつも布団に入るのと同じポーズで寝ていました。
障害とか病気とか関係なく、ただかわいかった。
幸せになってほしいと思った。
たくさん祝福される人生を送ってほしいと思った。
この子はこんなに強い子だから、何があっても負けないだろうと思った。
別に強くなくてもいいし、負けてもいいと思った。
悩んで泣いて苦しむときだってあるだろうけど、最後に笑ってくれればそれでいいと思った。
どうかこの子に素敵な人生が待っていますようにと思った。
そんな願いを込めて産むことを間違いだとは、わたしは決して思わない。
この子に障害があろうがなかろうが、病気があろうがなかろうが、どうでもいい。
この子はただ誕生がわかったときから祝福を一身に受けて、幸せになることを一心に願われた子だ。
出生前DNA検査もあるし優生思想もあるし、障害があると妙に憐れまれる。
そんなものはいらない。
この子にはただ幸せだけが待っていてくれたらいい。
できれば、この子が生きる世界が綺麗だと、なおいい。
差別だとか批判がこの子に飛んでこない世界だと、とてもいい。
それがわたしの、母親としての最初で最大の願いです。
いつか差別がなくなった世界で、この子が幸せに生きられますように。
母親として思う「この子にはきっと追いつけないだろう」
生まれたあとのことを今から想像しては楽しみにしています。
この子に追いつけなくなるのが楽しみであり寂しくもある
それでもわたし自身の体の問題もあって
- 体温が高くなると危険なので、お風呂は旦那の担当にしてもらった
- 握力や腕力がないので、抱っこは常に抱っこひも付きの最小限になりそう
- 首が座るまでわたしが抱っこできるのか、不明
八日目の蝉の最後の方に、走る薫ちゃんに向かって「もう追いつけないよ」と言うシーンがあります。
わたしもきっと、追いつけない。
この子が自分の足で立って、走り出せるようになったら。
もうわたしの足では追いつけない。
そんな成長が寂しくもあり、楽しみでもあります。
「障害者は子どもをつくるな」と言われるけれど障害者にも出産制限がある
心ない人には「障害者は子どもをつくるな」と言われます。
わたしはこれまで単に反発していただけでしたが、病院で
「妊娠していますがどうしたいですか?」
と言われ、
「産む産まないの話であれば産みたいです」
と答えたところ、
「あなたの体で出産できるか、確かめます」
と言われました。
子どもって両親の意思で産む産まないを決定できると思っていたのですが、障害が重すぎると意思に関わらず中絶となるそうです。
幸いにも前の主治医から許可が下りたので出産は可能となりましたが、初めて「出産にも他人の決定が関与する」と知りました。
戸籍変更したときも「なぜ名前も知らない裁判官の決定が必要なのか」と思いましたが、他人の決定は出産にまで絡んでくるようです。
障害をもっているだけで、出産すら自由に決められない。
そんななかでこの子は出産を許された子だ。
だからこそやっぱり、余計に、幸せが待っていてほしいと思うのです。