メロスは激怒した。
そんな風に、
わたしは激怒した。
かの、傍若無人とは言わないが、
ひとの苦しみを『「暇潰し」と称する「仕事」』で語る古市に。
わたしは元々古市が嫌いだ。
暇潰し感覚でひとの命について語るからである。
遊び感覚で命について語るからである。
氏以外でも「遊び感覚で命を語る人間」は大嫌いである。
決して氏にいちゃもんをつけたいわけではない。
ただ「遊び感覚で命を語る人間」の代表格として、今回氏に憤っている。
それをはじめにご理解いただきたい。
さて今回激怒したのは、彼の新たな本「奈落」について。
という、わたしの現況に酷似したストーリーだ。
氏は
とのこと。
たしかに健常者が全身不随に、しかも誰とも意思の疎通ができずに「生きる」ことが苦しいと想像するのはなかなかできるものではないかもしれない。
しかし、やはりこれは「想像」に過ぎない。
全身不随になって、体が思うように動かないなら死んだ方がマシで、それでも全身不随だからこそ死ねない苦しみは、このサイトでも今まで散々綴ってきた。
周りは勝手なことを思い込んで、勝手なことを言って、こちらの意思なんて関係なく「気遣っているつもりで」善意という名の言葉の刃を押し付けてくる。
そこにこちらの意思は関係がない。
なぜなら「意思を伝える術をもたない」からである。
この「奈落」という本を読んで「全身不随って嫌だな」と思う人がいたとする。
ただその人が「自分もいつ全身不随になるかわからないよな」と思うかは別問題だ。
なぜならこの主人公は一般人ではなく舞台役者で、そもそもの設定からして感情移入しにくいのだ。
というのならまだ親近感も湧いたかもしれない。
そして読者も「自分にも降りかかる可能性のある災難」だと感じることができただろう。
しかし繰り返すが、主人公は一般人ではない。
危険の伴う舞台に立つことを生業とする、いわゆる「ある程度の覚悟」をはじめから求められていた人物なのだ。
そんな人物が事故に遭ったら、それは災難とはいえど「覚悟の上の出来事」だ。
ある日突然全身不随になる恐怖に、自分の身体の受け入れがたさ、周りの妙な気遣いやそれに対する苛立ちは、この主人公の設定ではとても表し切れない。
書きたいと思うものを書くならネット小説と同じレベルである。
ただ著名人が書いたから売れたに過ぎない。
- 小説は何かを伝えるものでなければならない。
- 訴えたいものを物語で表すものでなければならない。
- そしてそれが読者に伝わるものでなければならない。
- できるのであれば、読後に読者が何か考えさせられるようなものでなければならない。
これが小説を書く上でわたしが念頭に置いている、いわばわたしのポリシーである。
だからわたしは認めない。
「全身不随で思ったことが伝えられないって嫌だな」
以上に何かを伝えようとしていないこの本は、小説ではない。
と思う人はどれほどいるのか。
著名人がこんな本を出したのをきっかけに全身不随について考える人が増えればいいが、
「こうはなりたくないな」
で終わるのなら読むだけ無駄というものだ。
全身不随で意思疎通のできないまま「生き残る」苦しみを想像できたことは素直に賞賛する。
氏の想像力は並のものではない。
並の健常者の想像力であれば、全身不随になった時点で人生終了、残りの人生で待ち受ける苦しみなど考えないのではないだろうか。
わたしは氏が嫌いだが、それはあくまで「全国ネットでの影響力をもちながらも命の話を軽々しくするから」だ。
もし同級生にでもいたら仲良くできたかもしれない。
さて本題へ戻る。
氏の想像力は並のものではないにせよ、問題なのは「その苦しみがもはや喜劇に見えること」である。
「これだけ食い違えば面白い」と読者が感じてしまえばそれまでだ。
それを喜劇として描かれてしまっては、たまったものではない。
だから元全身不随として、
泣き叫び意識不明を経てまた泣きながらリハビリして、
やっとの思いで指先を動かせるようになったわたしは言う。
ただわたしの言いたいことは、とりあえず以上である。
ということでわたしは今日、失った身体を取り戻すための「血漿交換」をしに、命がけで治療に臨む。
みなさま素敵な1日を。
今回の本↓