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デスノートが成り立つのは主人公が孤独だから|マイノリティを潰す社会で理解を求める難しさ

回想・日記

デスノートは夜神月やLが無口だからこそ成り立つ。

もしこの2人がおしゃべりキャラなら、デスノートという作品は崩壊する。

 

天才キャラはいつも孤高だ。

なぜなら寡黙だから。

 

近年はしゃべる天才キャラも増えてきたけれど、そういうものは「友達いっぱい仲間いっぱい、よくしゃべって明るい、けれど隠れて天才」みたいなやつだ。

天才さを前面には出さない。

 

デスノートをもし拾ったとして

『デスノート拾った、なう』

と呟くようなやつが主人公なら、即逮捕されて物語は終了する。

 

今回は話題になっているパンテーンからジェンダー問題について触れるか、それとも「子どもは大人が失った心をもっている」というわたし(というかしのん)のツイートへの反応について語るか、

迷った末、偶然目にした「親を親と思えない、むしろ憎しみの対象の人であることもあるとわかってほしい」とのFFでもなんでもない方のツイートについて語ることにしました。

どちらかといえば後者です。

 

「親が憎しみの対象な人もいることを理解してほしい」

先程と同じ投稿者によるこのツイートが理解されないことを、

もう「想像力の欠如」で片づけるのはやめて、考察家として真剣に考えたいと思う。

 

「毒親」について不愉快になる人はUターン推奨

 

「親」が尊重されるのは

親は子どもを育てるもの。

これは恐らく世間一般の常識ではないかと思う。

 

親はときに子どもを虐待するもの。

これは最近になって表面化してきた情報ではないかと思う。

 

けれど大多数、虐待に関する経験や職歴のない多くの人たちにとってはかなり他人事な情報だとも思う。

 

恤救規則

戦時中に旧生活保護法が制定がされるもっと前に定められた、生活保護法に似た法律がある。

それが「恤救規則」(じゅっきゅうきそく)

簡単にいえば「家族で助け合いましょうね法」

 

家族がいるなら助け合うこと、誰も家族がいないのなら国が生活を支援しよう。

簡略化するとこんな内容が書かれた法律。

 

日本はとても「家族の絆」に頼った政治をする国だし、それゆえかは知らないけれど「家族の絆」をとても美化する国だ。

 

少し例を挙げるなら、鬼滅の刃だってそう。

父親代わりだった炭治郎は、家族を襲った鬼への復讐を決意しながらも懸命に妹の禰豆子を守る。

 

わたしははじめの方しかまだ観ていないのであまり鬼滅の刃には詳しくないのだけれど、それでも炭治郎が禰豆子を守り、禰豆子が炭治郎を守り…な様子はとても美しい兄妹愛として、家族愛として描かれる。

 

わたしはそこが理解できないので呪術廻戦の方が好きだ。

みんな身寄りが少ない、頼れる人が少ないし……というのは今はさておき。

 

農耕民族と家長制度と男性社会

家族の絆・親子の絆どうこうを語るうえで欠かせないのは、恤救規則に加えて

  • 長年日本を支えてきた「家長制度」
  • 日本人は「農耕民族」である点
  • 「男は外で女はうち」との性別による役割分担

だと思う。

 

日本において1番(家族の中で)偉いのは家長――大体において父親であり、

そして農耕民族であるがゆえに子どもをたくさん産む。

 

たくさんの子どもを養っているのは父親であり、それを家事で支えているのが母親である。

子どもは自分を養ってくれている親に感謝するものであり、口ごたえは許されない。

親と子の身分差がここに生まれる。

 

わたしが散々人権を否定され続けたのも、こんな古典的概念に縛られた家ならではのことかなと考えている。

 

「親を大切に」が普通の人たち

別にどんな子育てが正しいとは言わないけれど、海外では

教育学者エレン・ケイは「教育しないことが最大の教育」と言ったし

教育学者モンテッソーリ は「子どもの人権を尊重すること」を重要視したし

イタリアのレッジョ・エミリアで実験的に行われた教育のレッジョ・エミリア法では「親への子育て指導」も子育ての一環だった。

上の本はモンテッソーリ教育とレッジョ・エミリア法とを比較しながら日本の一般教育との差異について書かれている本です

 

ところでわたしが昨日見たツイートには「親が死んで『悲しい?』って聞くとか障害者レベルなの?」「冗談にしても酷すぎる」などのコメントが付いていた。

ここにわたしは3点気になる、そして言いたいことがある。

 

1,「障害者レベル」

自身が障害者なので、やはりこの言葉はとても気になる。

「障害者レベル」と障害者を見下す健常者はどれほど偉いのだろうか?

自分より身分が下のやつがいるからと安心するようでは、江戸時代やらそこらの「穢多・非人」や「部落差別」と変わりない。

 

「お前が身体障害者だからそう思うんだ!精神障害者はおかしい!」

とか言う人がいたとしても、わたしは多くの精神障害者、知的障害者と現実に関わる身として

少なくとも障害者はそんな発言は平気でしない知性は持ち合わせているぞ?

例外で性格の元々悪いやつはいるけどさ。

 

と思う。

どちらが障害者レベルの頭かは、考えた方が良い。

 

親が死んで『悲しい?』が冗談

投稿者が「悲しい?」と尋ねられたことを、わたしは尊敬する。

 

だってどうでもいいもの。

 

自分にとって大切な人でない人の死は、ひどくどうでもいい。

画面の向こうで死刑が執行されようが自分には関係ない。

むしろ「無駄な税金が減った」と思う人もいるんじゃないかな。

 

そういう意味で、自分にとってどうでもいい人の死を「悲しい?」と尋ねて、相手が悲しがっているならば自分の憎しみの口を閉じようとしたこの人を、わたしはとても尊敬する。

あまり伝わらない感想、共感を得られない感想だろうけど。

 

仕方のない死と「冗談?」と責められる死

人の死がすべて悲しいものなら、今のIT技術はなかったと思う。

悲しむべき死を避けるために、不死の研究が最優先で進められたはずだ。

 

でも実際はそうじゃない。

延命治療の技術は進んでも、いずれ死はやってくる。

 

わたしの曽祖父は100歳近くまで生きた。

ピンピンコロリである日突然亡くなった。

「もう歳だしな」と親戚中が口を揃えた。

 

母方の祖父、つまり母()にとっての父は、わたしがまだ保育園にいた頃に自殺した。

親戚中が悲しんだ。

葬儀場で焼き場へ運ばれる瞬間、長男さん(わたしにとっての叔父)が「親父~!」と叫んだ。

みんなが泣いた。

 

「おばあちゃんも死んだらあかんで」

2年前に父から聞くまでは「心臓発作で死んだ」と伝えられていたけれど、何かを悟ったらしい小春は祖母の手をつかんでそう言ったらしい。

当時5歳のわたし、3歳の小春、初めて経験する「人の死」だった。

 

死は悲しいらしいと知った。

 

でも曽祖父の死は「仕方がない」

たぶん世の中の大半の人の死が「仕方ない」

 

通り魔に襲われても「運が悪かった」「でも仕方ない」

病気で死んでも「可哀相に」「でも仕方ない」

 

そうやって人の死を悲しまずに「仕方ない」「だっていずれ人は死ぬ」で済ませられるから、人は人として死ねるし不死のためにすべてを捧げるなんてことが起こらない。

 

自分を傷つけた人が死んだ。

「どうでもいい」

 

親が死んだ。

「仕方ない」

だって年齢的には子どもより早く死ぬものだから。

 

人の死を悲しまない人がいるから今の世の中がある。

世の中全員の死を悲しんでいたら、楽しい瞬間なんてない。

ずっと悲しんでいなくてはいけない。

だってこの瞬間にも、どこかで誰かが死んでいる。

 

人の死を悲しまない人がいたとして、親の死を悲しまない人がいたとして、誰にそれを責める権利があるのだろうか。

 

毒親育ちにとって「親」とは

ところで昨日は揚げだし豆腐と糸こんにゃくのきんぴらを作った。

貧乏だった時代の名残り……というか、割といつも食費を切り詰めて生活していたから

  • もやし
  • 豆腐・高野豆腐
  • 乾麺

この辺りの料理レパートリーには事欠かない。

 

それを、今の家に来てからはとても褒められる。

毎回とても不思議な気分になる。

 

当たり前にしていた、させられていたことを、ましてや1食すべて作るわけでもなく品数を増やす程度にするだけで喜ばれる。

 

食事を作って喜ばれたことがないとは言わない。

けれどそれは大昔か、麻痺や痙攣が酷くなって立つことすら大変になってからの数度だ。

毎日褒められて、毎日おいしいと言われる。

なかなか無いよなと毎回泣きそうになる。

 

人間としての毒親

毒親育ちにとって親とは、ひとりの人間だ。

「親」という別格ではなく、特別扱いする対象でもない、ただの人間だ。

 

頭に「憎い」がつくかどうかは個人差があるだろうけれど、わたしのように無関心なタイプにとっては「道ですれ違うその他大勢と変わりない」と思う。

少なくともわたしにとっては

 

親を人間として見て、何が悪いのか?

わたしはそれがわからない。

 

特別扱いしなくて、何が悪いのか?

わたしはそれがわからない。

 

正確には「わからない」のではなく、「わたしはそうは思わない」

 

親を特別扱いせずひとりの人間として見た結果どうしても好きになれないことは往々にしてあると考えている。

 

育てられていない

崖から突き落とされた虎の赤ちゃんは、突き落とした親虎に「落として強くしようとしてくれてありがとう♡」なんて愛情を感じるのだろうか。

動物と会話できるとしたら、これをぜひ聞いてみたい。

 

先程挙げた料理のように、幼い頃から家事全般を担っていたわたしは「両親に育てられた」という意識がない。

 

わたしが初めて作ったのは、小学1年生のときのお味噌汁。

ひとつ年上の友達が「調理実習で作ったから教えてあげる!」と教えてくれた。

 

効率的な輪切り、みじん切りの仕方は調理人だった父方の祖父に、けっこう大きくなってから教わった。

クックパッドやらクラシルやらそんな便利なものは当時なく、すべてが自己流だった。

 

でも友達や祖父には「教えてくれて、育ててくれてありがとう♡」と思っている。

少しでも教えてくれた、育ててくれたと思えたなら、そこに愛情は自然と湧く。

 

でも世の中の大多数はその愛情を親に覚える。

なぜなら親が育ててくれるから。

 

ハンバーグにつなぎがいることも、ナツメグを入れることも、すき焼きに大根は入れないことも、サラダにはドレッシングをかけることも、中学生・高校生になるまで知らなかった。

ちょっと違うか。

知識としては知っていったけれど、自分がその「常識的な知識」にあてはまる状況にはならなかった。

 

わたしの作った料理を食べ、わたしの洗った服を着て、わたしの掃除した部屋を汚す。

そんな親を相手に「育てられた」と思えるだろうか。

 

わたしは思えなかった。

逆に「わたしが育てた」意識ならある。

 

父をわたしの長男だと思っていたし、母を子どもとは言いづらいけど世話する必要のあるやつだと思っていた。

 

習い事代、学費を出してもらったとは……この辺りは複雑なので今回は割愛するけれど、ある程度は思っている。

 

でもさ、勝手に生んだ方が悪くない?

生んだなら世話する、これ当たり前。

 

少なくともわたしはそう思う。

 

親を愛する人たちは

想像力は何かをもとにしてイメージを膨らませる力だ。

爆発して現実離れすると妄想力と呼ばれる。

 

親を愛して当然、親が死ねば悲しんで当然の人たちは、こんな世界を知らない。

 

知らないものは、想像できない。

なぜなら基盤となる「親に育てられない状況」を知らないからだ。

その知識なくイメージを発展させることはできない。

 

だから今回必要なのは「知識量」であり「創造力」だ。

 

知らないものを知り、知識量を増やして「想像力」を使うか
知らないけれど「こんなこともあるかも?」と「創造力」を使うか

 

今ある知識で相手を思いやる想像力も必要だけれど、0から何かを作る創造力が足りていない、もはや無い人たちの方が多いと最近気づいた。

創造力の方が必要かもしれないな、と最近思った。

 

「君の肝臓をたべたい」?

「君の肝臓をたべたい」と言われたら「太ったのかな?」「フォアグラに見えるのかな?」と思うけれど、「君の膵臓をたべたい」と言われたところで、原作もきちんと読んだところで「は?」の一択しかない。

 

意味はわかる。

「爪の垢を煎じて飲む」と「肉食動物は自分の中の悪い内臓を食べて治そうとする」とを掛けているのもわかる。

 

けれどこの作品に感動した人と仲良くできるかというと、かなり自信がない。

 

盛大なネタバレになるので「楽しみ!これから観る!」という人はUターン推奨

 

人の死因はわからない

この最後にヒロインが通り魔に殺され、「余命宣告されているからって余命いっぱい生きられるわけじゃないんだ」と主人公が気づくシーン。

たぶん長期の病気になったことのある人ならわかってくれるんじゃないかと思う。

 

「そんなの当たり前じゃないか」

 

現代の死因第1位は「老衰」だ。

少し前までは

1位、悪性新生物(がん)

2位、脳血管疾患(脳卒中含む)

だった。

老衰は第4位くらいだったはず。

 

けれどわたしの知っている最新データでは

1位、老衰

2位、脳血管疾患(脳卒中含む)

3位、悪性新生物(がん)

になっていた。

 

医学の進歩により脳卒中やがんからは一度復帰して退院したものの、その後亡くなり「老衰」と診断されることが増えたらしい。

 

ちなみにわたしのもつ難病:多発性硬化症は直接の死因になることがかなり稀だ。

  • 痙攣による窒息はわたしが経験したものだし
  • 治療によるアナフィラキシーショックと昏睡も経験したし
  • 治療遅れ・治療不能による全身不随も経験したし

ついでに

  • 浴槽に浸かって温まった多発性硬化症の患者さんは「温まったら脱力する」症状によって死んだ

死因は、溺死。

わたしも温まると呼吸筋が脱力して息が苦しくなるので、なんとなくわかるような気はする。

 

ともかく、脳卒中やがんなどの「命に関わる!」「早い治療が必要!」みたいな病気でもない限り、そして現代ではそういう病気であっても、

病気=死因とは限らない。

 

これがわたしの感想「は?」の理由。

人がどんな理由でいつ死ぬかわからないだなんて、今更じゃないか。

 

作品を否定する気はないけれど、そこに感動する人が多いというのは、ちょっと、なんだかな。

想像力の欠如なのか、創造力の欠如なのか。

 

理解を求めること

天才はいつも孤高だ。そして孤独だ。

それは「誰にも理解されないことを理解している」から。

 

天才でなくとも、この世界でマイノリティとされる人はとても孤独だ。

ずば抜けて社会に貢献できる方のマイノリティ――天才とかお金持ちとか専門家とか――でなければ、孤高ではなく単に孤独だ。

 

親の気持ちになれ

「親の心子知らず」

 

子どもが親について何か言えば、いつも周りから

「親も大変なのよ」
「わかってあげて」

散々諭される。

わたしはこれがいつも疑問だ。

 

「なぜ子どもが親心を察して気遣ってやらなければいけないのか」

 

生んだのはそっちだろう?

なら気遣えよ

世話しろよ

迷惑かけても当然だろ?

「だって勝手に生んだんだから」

 

と、

「(生んでほしいとは頼んでないけれど)生まれてきてごめんなさい」

と早朝5時から謝らされたわたしは思う。

 

「親は親をするのが初めてなんだから」

そうよく言われた。

 

「子どもも子どもをするのは初めてだよ」

それは聞いてもらえなかった。

 

さらにいうならば

  • 親は子ども時代を一度経験している
  • だから子どもの心をわかると思われている
  • でも実際は「自分の子ども」を経験していない
  • だから「自分の子育て」で「自分の子ども」がどう思うかはわからない

たしかに親の心を子どもは知らないけれど、親だって自分のもとで育った子どもがどう思っているかは知らないはずだ。

そのくせ「親の心子知らず」とことわざを知った顔で振りかざしては親の苦労を語る。

 

人の苦労は千差万別。

他人に決められるものではない。

 

毒親育ちに限っていうならば、毒親というだけで味わう苦しみと周囲に理解されない苦しみを両方味わうことになる。

 

「お母さんも大変で」

違うんだよ、ただ味方が、せめて愚痴を聞いてくれる人が、ほしかっただけなんだ。

 

「こんな苦労をしたけれど、全部が全部悪かったわけじゃない。役立つ部分もある」

主に家事面で。

そう自分で言うのは良いけれど、他人から

「苦労した分は無駄じゃないよ」

とか

「若い頃の苦労は買ってでもしろって言うから」

とか訳知り顔で言われると、ちょっと、いやかなり腹が立つ。

 

「お前は何も知らないくせに」

 

そうやって「毒親育ち」が、マイノリティが声を上げられるようになったのはごく最近のことだ。

 

でも夜神月やLが作品内で周囲に理解されないように、マイノリティが声を上げてもマジョリティは押し潰す。

「常識」という、わたしたちマイノリティにとっての「非常識」を振りかざして。

 

正義は作れる

「かわいいは正義」

「苺ましまろ」という漫画のキャッチコピー。内容は知らないけれど。

 

「かわいいは作れる」

CANMAKEやエッセンシャルのCMでのキャッチコピー、らしい。

 

なら「正義は作れる」

そうだよね。

 

この謎の三段論法をわたしはよく使う。

受験生諸君、これが三段論法だ。

覚えておいて得かは知らないけど、たぶん損はしない。

 

普通の人――全人類にとって親は尊敬すべき存在で愛情を注ぐべき存在で死を悲しむ対象であると考えている人――は「自分が絶対正しい」と疑わない。

だから「親の死が悲しいか?」について「わからないのは障害者レベル」なんて言えてしまう。

それを見た毒親育ちや被虐待者や障害者がどう思うかなんて考えもせずに言えてしまう。

わかっていないのは自分だなんて考えもせずに。

 

孤独は寂しい

夜神月の敗因は死神や懐いてくる女の子を邪険にできなかったことだと思う。

ひとりで過ごせば、デスノートを使わなければ、夜神月はLに捕まらなかった。

でも使ってしまった。

はじめは好奇心として、2回め以降は「自分の力の誇示」すなわち「自己顕示欲」だ。

 

自分の力を見せつける相手もいない真の孤独では、なんでもいいから人との接点が欲しくなる。

だからわたしはデスノートを、歪んだ自意識、かまってちゃん精神から生まれた物語だと感じる。

 

「孤独を選べ」という人は選択肢があった人。

本当に孤独なら、選ぶ以前にまず孤独。

誰にも理解されず、反対する人、敵ばかり作って終わる。

 

ようやくマイノリティが声を上げられるようになった時代。

きっとマジョリティには理解できない。

なぜならそんな世界を知らないから。

 

一般人が「デスノート」で人を殺せると思わなかったように、そういう発想がまずないから。

だから大きな、マジョリティによる膨大な数の反撃を受ける。

マイノリティはそれを覚悟したうえで声を上げなければならない。

でないと自分が傷ついて終わる。

 

「知ってほしかっただけなのに」

その声すら届かずに終わる。

 

そして孤独なまま戦い抜ける人は、マイノリティの中でもごく少数だ。

 

夜神月が味方を許したように、Lに部下か仲間かは微妙だけどとりあえず味方がいたように、ホリエモンや古市氏やメンタリストを崇め奉る人がいるように、

どんな天才も実力者も、味方がいなければ潰れていく。

 

だからわたしはたとえマジョリティが理解できなくてもいいからデスノートが物語として成り立つように、マイノリティの人々の「人生という物語」をマジョリティがどうか潰さないようにと、ただただ願う。

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