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【親を捨て、親を拾う】毒母を捨てたら体調が良くなってきたので結論「毒親は捨てるべき」

回想・日記

本を書こうと思ったけれど、どうにもまとまらないから日記形式で綴っていくことにした。

きっとあの人たちも読んでいるのだろう。そして否定するのだろう。

それでも吐き出さずにはいられなかった。

不愉快になる人はUターンを推奨します

まえがき

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」とシェイクスピアは言った。
「焼き肉焼いても家焼くな」と日本食研は言った。

 

「生きるべきか死ぬべきか」の方が、人生の命題として正しいように思う。

けれど「焼き肉焼いても家焼くな」の方が、生きていくうえの教訓として正しいように思う。

 

わたしたちはそんな曖昧な世界に生きている。

どちらが正しいか、誰にとってのどんな観点かによって異なる世界に生きている。

 

だからこれは、わたしにとっての事実。

わたしが生きてきた「世界」であり「現実」だ。

それを信じるかどうかは読んだ人次第だし、どう思うか、どう感じるかも読んだ人次第だ。

ただこれがわたしにとっての現実だったというだけ。

 

どうしてわたしがこのタイミングで自分語りをするのか。

それはただの自己満足。

「わたしはこれまでの人生を一旦整理しないと次の段階へ進めない」

そう感じたからに過ぎない。

 

でもこれが、同じような境遇の人に届いたり、まったく違う境遇の人に届いて知らない世界を知ってもらえたり…そんなきっかけになれば嬉しいなとは思う。

 

まえがき2

じゃあ本気のまえがきに移りたい。

「非情に感じると思う。けれどわたしは、親を捨てなければ生きていけない」

そう説明して、

「こんなわたしを許してほしい」

そうお願いした相手は、親ではなく婚約者だった――

 

これはわたしの、24歳のわたしの、これまでの人生の、祖父母にまで「ドラマの世界」と評された、実話について。

 

共感してほしいわけじゃない。

同情してほしいわけでも、可哀相だと憐れんでほしいわけでもない。

 

「たったそれだけ?」と思う人もいると思う。

 

とても不適切な言葉もあると思う。

 

けれど、この正直な気持ちが、言葉が、誰かの救いだったり、それこそ同じような悩みを抱える人の力になれたり、そんなことが起こってくれれば、わたしは心底嬉しく思う。

 

最近進んできた記憶障害。

今のわたしをつくったのが何なのかを忘れないために。

わたしが知ったことを、経験したことを、他の誰かには味わってほしくないから。

 

特に長男長女。

そして親。

 

わたしと同じ思いは、しないでほしい。

させないでほしい。

 

誰かの力になれたら――これはほんと。

 

ここに書いてあることなんて、本当に信じても信じなくてもいいんだ。

でもこれがわたしの生きてきた世界だ。

わたしにとっては、これが真実。

 

それも信じなくていいけど、「世界は自分の知らない側の方が広い」らしいし、これを信じて

「同じような人生は嫌だな」

「自分はしたくないな」

「子どもにはこんなことしないでおこう」

って思ってくれる人がいると、やっぱり嬉しい。

紫乃 遼(しの はるか)

 

まえがき3

しのんから伝言的に書き込みがあったので、以下はそのコメント。

言葉ってのは不思議なもんで、「お前が悪い」って言われると、たとえ自分は悪くなくても「自分が悪いのか?」って一瞬でも考えちまう。

これを読んではるかと同じような経験、親を捨てたり誰かを見捨てたり、そういうことをして罪悪感を抱えてるって人がいるなら、口に出して言ってみてほしい。

「自分は悪くない」

はるかの相棒 しのん

 

わたしの現在

わたしの現状を心配してくれている人が(特にTwitterに)いる(かなと想像している)ので、現況報告をします。

 

それなりに元気です。

家は出ました。

父方に戸籍を移すべく家庭裁判所に今日行きます。

もう行きました

 

役所の手続きに奮闘しながらリハビリを頑張っています。

最近では診断時、リハビリ病院から退院したとき――21歳の9月28日、腹筋に力を入れれば多少の距離はひとりで歩ける状態――レベルにまで回復しつつあります。

要するにちょっとだけなら歩けるようになりました。

 

あれほど苦しんだ痙攣は少しマシです。

前を100とすると97くらいにはなりました。

見た目の派手なのが少なくなったので、外見はかなりマシに見えるようです。

 

ただ現実はそこまで甘くなく、全身疼痛は消えません。

たまにおちょくって脚を叩かれるとしばきたくなります。

冗談ですと言いたいですが本気です。

とりあえずキシャーと威嚇はしています。

 

多発性硬化症の症状としてある慢性疲労や雨への耐性の低さ、暑いと脱力するのはどうしても改善しません。

 

知人に同病もちもいるけれど、ほとんどが軽度。

雨の日には手足が痺れるだけで動ける。

 

重度だと、普段は電動車椅子でぶいぶい走っていたのを見かけなくなる。

雨だからなのか、動けなくなるからなのかは不明。

重度の知人は、当然だけれどどうも少ない。

ただわたし自身は、雨の日に動けなくなるのは重度に一度でも陥った人の特徴なのかな、なんて考えたり。

 

入院もしておらず幽閉もされておらず寝たきりでもない初めての梅雨と夏。

比較的穏やかに過ごせています。

 

前より、家を出る前より元気です。

そこに至るまでの話をまずはしていきたいなと。

 

でもね、穏やかに過ごせているのは周りの環境というより、ひとえに自分の努力あってのことだと思うんだ。

 

父の家に棲み着く

一般的に「離婚した父の家に」といえば「棲み着く」ではなく「戻る」や「移る」なのだろうけどあえて「棲み着く」としたのは、父がもう再婚していて新たな家庭をもっていたから。

子どもはおらず夫婦だけ、とはいえ家庭なのは変わりない。

 

そんな場所にまずは数日間、お泊りという形でお邪魔。

1週間は一旦戻され再度「お泊り」の形で来たものの、1週間のお泊りののちに「引っ越し」へ。

 

父はともかくとして、出会ってまだ数日の人に「この家の子にしてください」と頭を下げた。

 

引っ越しを認められるまでにそこから数日、戸籍移動を認められるまでには1週間ほど。

怒涛の日々だった。

 

きっと再婚相手さん――わたしの好きな太宰治の「人間失格」の中で献身的な妻として描かれる「よし子さん」と呼ぶことにする――の方が急展開で驚いたと思う。

けれどともかく、わたしは出会って1か月に満たない人の子どもになる決断をした。

 

荷物も取りに行き、大型のものは「来年結婚で引っ越すときまで置かせてください」と母方の家に頼み…

「今までありがとうございました」と頭を下げ、父の家へ移った。

 

すぐに父へは頼れない

ここまで読むと「別れた父親いるなら早く父親に頼ればよかったじゃん」って言う人が絶対いる。

少なくともわたしならそう思う。

 

でもわたしをよく知る人なら知っている。

「わたしの父親は一度精神崩壊している」

 

そしてわたしをよく知る人でもなかなか知らない。

「わたしはとうの昔に父親を一度捨てている」

 

離婚調停

小5くらいからだったと思う。

父親が家にいないことが増えた。

 

小4くらいのときにリストラされて以来、自営業やらFXやらで父親は基本家にいて、母親はパートで家を空けていた。

その「基本いる父」がいなくなった。

帰ってきても夜中に怒鳴り合いの喧嘩をして妹たちの睡眠の邪魔になるだけから、当時は深く考えなかった。

 

でもある日突然、父が帰ってきてTシャツを渡してきた。

「タイ土産やで!」

わたしと妹たちは当たり前ながら困惑する。

「ひとりでタイ行ってきたん?」

Tシャツには大きく「Bangkok」と書かれている。

非常にダサいけれど妹たちはおしゃれに着こなしたのは今さておき。

「そうやで!」

笑顔で証拠写真を見せてくる父が怖かった。

 

なぜ今?

なぜひとりで?

うちお金ないのに、わたしたちは切り詰めているのに、どうして?

 

とてもぐるぐるした。

 

当時から「うちが貧乏なのはパパが趣味にお金を使うから」だと言われていた。

今は母親の宗教のせいだとわかっている……というか、わたしはそう理解しているけれど、ごく最近までそう教えられて育ってきた。

 

他にも、

タバコを吸いはじめた。

わたしはタバコアレルギーで、タバコの煙を吸うと喘息が出る。

それでも容赦なく吸っていた。

においをごまかすためにメロンの香りのアロマキャンドルを焚きはじめて、家の中のにおいはカオスだった。

 

太ったから、とダイエット食品を買いはじめた。

「ご飯が足りない」と言い、母親が自分の分を差し出し、「お前のせいで太った」とダイエット食品のうの花クッキーを食べる父の様子は狂ってるとしか思えなかった。

 

要するに言動が破茶滅茶だった。

そのとき、父は何かの病気にかかってしまったのだと母からわたしにだけ告げられた。

 

離婚成立前から母親の相談に乗っていた長女のわたしだけは、離婚成立後に「パパはうつ病」だと聞かされる。

 

自分の分のご飯を差し出しやせ細っていきながらもリストラされた父の代わりに働きはじめた母親を見ていた当時のわたしたちは母親の味方だった。

 

離婚はそんなことの続いていた中学1年生の1月のある日、父が「あんたらしばらくママと一緒に、〇〇(母方の姓)の家行っといで」と登校前のわたしたちに言ったことからはじまった。

 

わたしは困惑した。

母親の反応を見るに、夫婦で相談していないことは明らかだった。

 

何も知らない妹たちは無邪気に喜んだ。

当時母方の実家には教会でしか遊べなかったいとこの家族が居候していたから、「これで毎日遊べる!」と喜んでいた。

 

わたしは笑えなかった。

 

昔、小学2年生のとき祖父母と別居したときも突然だった。

いきなり引っ越して「じいちゃんばあちゃんに会ったらあかん」と言われた。

 

しばらくして週に1回、金曜日の夜にご飯を食べに行くことだけは許されたけど、その日以外には会えなかった。

同じようなことになる気がした。

 

ただ父は「パパは病気治して迎えにいくから」と続けた。

 

わたしはその約束を信じた。

信じていた。

信じたかった。

また両親そろって、家族で笑える日が来るよう願った。

 

世間知らずな小娘の夢物語だったのだと知った。

 

父が車でどこかへ出かけていた夜、いとこの両親が車でうちにやって来た。

「最低限の荷物だけ持ち!」

そう言われ、服の入ったタンスのひきだしだけを何往復かして車に積んで、そのまま父以外の全員が乗ると車は発進した。

 

夜逃げのようなそれで、それだけで、引っ越しが終わった。

その年の8月、離婚が成立した。

 

成人してから父に聞いた話によると、父はうつになり知人に紹介してもらった病院でパキシルという抗うつ薬を上限の十倍処方されてうつの症状以上に余計におかしくなったのだそう。

他にもデパスとかなんやかんや、わたしが抗痙攣薬として使った――けど効かなくてやめた――薬を父は向精神薬として使っていた。

 

離婚理由は母親から「離婚しないとパパが『俺の保険金で生きろ』って死のうとするから、受取人から外れるために」と教えられていた。

まだ自殺でも保険金が下りた時代。

そして父いわく、人ひとりなら一生遊んで暮らせるくらいの保険金が父にかかっていた時代。

 

母は弁護士を雇い、父は誰も雇わず、離婚調停の末に離婚が決まった。

 

なぜ父が言い出した別居期間中に

なぜ「迎えにいくから」と約束しているにも関わらず

なぜ離婚調停までして離婚したのか。

それは誰も教えてくれなかった。

 

「パパから電話かかってくるかもしれへんから、この番号からの電話は出たらあかんで」
「パパが学校終わりとかに迎えに来るかもしれへんから、あんたらは絶対いとこの誰かと一緒に行動すること」

 

いとこ家族も含めた実家の全員とわたしたち家族が集まって言われたのはその2点だった。

 

なぜ父親と連絡を取ってはいけないのか

なぜ迎えに来たのに行っては駄目なのか

それもやっぱり、誰も教えてくれなかった。

 

重度の家事労働と家出

別れて住む前に、わたしだけは父親からiPhoneのSIMカードとレンタルメールサーバーをもらっていた。

 

iPhoneは機械好きの父が買ったもの。

自分は最新版を使うからとゲームや音楽を聴く用に初代をわたしたちにくれていた。

当然SIMカードがないので電話はできない。

 

それを、わたしにだけくれた。

「あの子らは口軽いからな。内緒やで」

わたしと父との秘密だった。

 

母方の実家ではとても苦労した。

Twitterで先日話したら「虚言症」と一方的に決め込まれ、励ましたつもりが数回尋問調の返信が届いたあげく「虚言症治るといいですね」と暴言を吐かれて「朝から虚言癖の怖い人に絡まれた~」と被害者面された「10人分の家事」がここにおさまる。

 

小学2年生から、家事はわたしの仕事だった。

引っ越せば、10人分の家事すべては祖母の仕事だった。

 

祖母が10人分の食事を作り、1日3回洗濯して、4階建ての家すべての廊下・階段・部屋に掃除機をかける……のを横に、平然とテレビを観て笑っているいとこたち。

――わたしには無視できなかった。

 

わたし発案の話し合いで、掃除当番が決まった。

わたし以外、誰も守らなかった。

 

朝6時に起きて、祖母の分以外の弁当を作った。

朝食は食パン、とはいえ1人1枚でも1日に2斤消費する。

卵だってお弁当の卵焼きだけで1パックいる。

牛乳の消費もすごかった。

いとこの田舎が米を送ってくれるのだけは嬉しかったけれど、玄米だったから精米が大変だった。

野菜も送ってくれるけど、それだけじゃ足りない。

ほとんどが育ち盛りの子どもだ。

 

学校終わり、毎日買い物に走った。

学校終わり、すぐに掃除機をかけて回った。

その間に洗濯して、洗濯物を片付けて。

それが終われば、すぐに夕食の準備をした。

夕食後の片付けも、食器が多くて大変だった。

弁当箱を帰ってすぐに出さないいとこ両親にキレたこともある。

 

小2から家事はわたしの仕事だったとはいえ、人数が増えれば家事の負担は増える。

それも倍増どころの騒ぎじゃなかった。

いとこ家族は元々、片付けをしない。

掃除なんて、もっとしない。

 

「手伝ってくれる人はいなかったの?」

いたよ、疲れ果てた祖母が。

やらせるの?

鬼かよ。

 

そういう意味では、手伝ってくれる人はいなかった。

正確には「手伝える人」がいなかった。

散らかす人しかいなかった。

 

妹たち?

うん、いなかったんだよね、なんでだろうね。

 

家事をするために、宿題はできるだけ学校で終わらせた。

宿題以外の勉強は、幸か不幸か、しなくてもできてしまった。

 

夕食の準備で冷凍庫を開けに屈んでいると、いとこにおしりを蹴られた。

笑って逃げるいとこに泣きながらキレた。

 

そんな日々に疲れて、わたしは近くの河川敷で手首を切った。

意外と血は出ないのだと知った。

切り方にコツがあることは、相当あとになって知った。

ただ、知りたくはなかった。

 

もらったSIMカードは父の回復度をみるため、父の様子見用に使っていた。

わたしに父の治療はできないかと休みの日に遠くの図書館まで誰かの自転車を借りて行って中学生には難しすぎる専門書を読んで、会う度に治療を試みた。

そのときは「近親者が治療にあたってはいけない」原則も知らなかった。

 

そのSIMカードで、初めて避難信号を出した。

 

「いつでもおいで」と言われていた。

「あの子らは違うけど、あんただけは△△(父方の姓)の子やから」と言われていた。

「16歳になったら親権選べるから、パパのとこおいで」と言われていた。

 

いつも、わたしだけが。

 

ただそのときには、もう疲れて家を出ようと思ったそのときにはそれが助かった。

 

父方の最寄り駅まで移動すると、父方の祖母が迎えに来てくれた。

下着類を買ってもらって、新たに見つけた仕事から帰った父が迎えに来てくれた。

 

父は、終始笑っていた。
わたしの痛みにも気がつかず。

 

シャワーを浴びた。

水が傷口にしみる、その痛みがあまりにも馬鹿馬鹿しくて、自分の価値なんてこんなもんなんだと知った。

 

母親からの一度目の電話には「困らせてやろっか」とわたしに笑い「うちには来てないで。知らんで。あんたちゃんと面倒みるって言ったんちゃうん」と電話口で語気を強めた。

2時間ほど経ってからかな、2度めにかかってきたときには「うち来たで。どういうこと?」と母親を責め立てた。

 

わたしは戦利品だった。

 

父はわたしを見ていなかった。

「母からわたしを奪えたこと」を喜んでいた。

 

「わたしは戦利品」については最近父に伝えたところ「たしかにあの頃はあの人への恨みばっかりやったから、あんたが感じた通りやと思う」と言われた。

 

わたしは一晩リストカット痕の世界一どうでもいい痛みに耐え、翌朝火曜日、仕事だったかハロワだったかは覚えていないけれどそれを休んで始発で迎えに来てくれ――というのはのちに嘘だとわかるが――泣きながら抱きしめてくれた母親に、

「わたしを本当に愛してくれているのはこの人なんだ」

と帰りのバスで思ったのははっきりと覚えている。

 

わたしは父と連絡を取るのをやめ、治療のための勉強もやめた。

 

ただそのあと母親の

「あんたが家出してから主任さんも支部長さんも(母の所属する仏教教会のお偉いサン)ずっと玄関で「絶対帰ってくるからね」って励ましてくれててんで。今度お礼言っときや」

との謎の命令的な何かと、

「誰もあんたに家事してなんて頼んでないやん」

とのお叱りは、けっこう謎だった。

 

励まされたのはわたしじゃない。

一応次に会ったときに「ご迷惑おかけしました」とは詫びたものの、お礼は言わなかった。

 

「誰もあんたに頼んでない」と謎に怒られたので、母方の実家に戻ってからわたしは一時期家事をやめた。

 

でもまた祖母がはあはあ息を切らしながら洗濯に掃除に買い物に食事にとあくせく働くだけだったので、見ていて可哀相に思ったわたしはまた家事を代行することになった。

何も変わらなかった。

 

死んだように生きれば楽なのだと知った。
所詮わたしは物なのだから、という諦めを知った。

 

ちなみに母親は父方の実家に上がり込んでわたしがいないか家出当日に押入捜索していたそうだ。

たぶんどこかに泊まっていて、「始発で来た」は嘘だろう。

 

このときにSIMカード、メールサーバーはバレて使えなくなった。

そしてなぜか父の住所も大体知っていた。

「この辺やろ?」と地図で確認を取られて、なぜ知っているのかぎょっとしたのを覚えている。

 

でももう自分から避難信号を出そうとは思わなかった。

 

だってわたしは物だから。

 

離婚の真相

結論からいうと、離婚理由は母親のでっち上げだった。

父は「俺の保険金で生きてくれ」なんて言っていなかった。

少なくとも父は「言っていない」と言った。

 

父が言ったのは、母の「あのとき死ねば良かったのに」という言葉に対して「次は失敗せーへんわ」だった。

 

まだわたしが保育園に通っていた頃、父方の祖父母と同居していた時代に父は過労で倒れて救急車で搬送されたことがある。

「そのときに死んでくれてたら良かったのに」とのことだった。

 

それに従った父は、風呂場で手首を切った。

当然、血は止まる。

父の1度めの自殺未遂だった。

 

その後も「お金がない」「あのとき死んでくれていれば」「あんたが死ねば」などを言われ続けた父は、「今度は失敗せーへんように首切るわ」と言ったそうだ。

 

そこで「なんかやばい」とようやく気づいた母が、うつが伝染し当時うつ状態にあったわたしを連れて急いで離婚した、というオチだった。

これはわたしが原因と言えなくもないけれど、わたしは親の離婚は親の都合でしかないし子どもを言い訳に使わないでくれと思っているので、悪いとは思っていない。

もともと夫婦仲は最悪だったし。

 

夜中の怒鳴り合いで妹たちが起きないようわたしが毎晩どれだけ苦心したか。

内容を聞いてしまったわたしが毎晩どれだけ泣いたか。

 

母親から散々「あの人は養育費も払わんと、あんたらに貯めてた口座も全部凍結してお金持ってった」という愚痴も、父方の家族が全員口をそろえて言うことには、

「パパから『口座を止めてくれ』って言われて慌てて走って止めたけど、お金は全部下ろされたあとやった」

とのこと。

つまりどちらの言い分も総合すると、母親がお金を全額おろしたあとに、父親が口座を凍結したというオチだった。

 

父には弁護士を雇う費用もなかった。

離婚調停は自分で六法全書をめくって臨んだのだという。

けれど病気の体には限界があった。

 

離婚調停の現場で父は「もう何でも条件飲むから!俺をここから解放してくれ!」と叫んだそう。

そこで母と母の弁護士は勝ち誇った顔をした――というのは父の談なので主観だろうなとは思っているけれど、調停員が

「じゃあ慰謝料を――」

と言い出したので

「調停員は中立ちゃうん?俺なんか悪いことした?」

と言うと黙ったというし、父の元には財産の監査的な「払えるものがないか調査」が入ったというから、離婚したら子どもを引き取らない側が慰謝料を払う認識はまるで常識のように浸透しているのかもしれない。

 

父が母に父方の実家の相続放棄をさせられていたのが幸いして父方の家族は住居を失わずに済んだというから、皮肉なものだと思う。

 

養育費を払わなかったのは「確実にあの人のものになって子どもらには回らない」と思ったからだそうで、実際父はわたしたちに直接渡すために貯金していた。

1人ずつ貯金するのはとても大変だったと思う。

ましてや父は出張職にばかり、そのほとんどがブラックな会社だ。

過労もあったし、疲労骨折もあった……のは、わたしが成人して以来再び、たま~に会うようになったので実際に見た。

 

父を信じたのは

わたしは母方に引き取られていたから、こうした父方の事情のほとんどはひと月ほど前に知った。

 

これだけだと「父はおかしかった頃やし、そんなん父の被害妄想じゃない?」と思うかもしれない。

母が父方の祖父を虐めて死を願った事件は、きっかけがあれば書くかもしれない。

ただ宗教を熱心にやっている割には、身内にはけっこう酷い人だということだけ今回は書いて終わりにしようと思う。

 

そんなわけでこの1度めの家出のときに父を捨てたわたしにとって、父は母がおかしいからといって頼れる人ではなかった。

 

ただ、よし子さんはとても良い人だ。

「この人が結婚して良いと思えるなら、父も回復したのかもしれないな」

そう思えたのが、父方に身を寄せようと思ったきっかけだった。

 

もちろんよし子さんは「いつかそんな日が来るかもとは思っていたけどそこまで急とは思っていなかった」とびっくりしていた。

 

わたしがよし子さんを信頼したから父も信じられたというのも、「親を信じられない」経験がなければわからない話だと思う。

 

ただ親よりも他人の方が信じやすいのは、それなりに虐待を受けてきた人ならわかってくれると思う。

わからない人は、そういう心理が存在することを知ってもらえると嬉しい。

 

わたしの受けてきた虐待内容は、これも機会があればということにして――

 

これは、わたしが生きてきた世界の話。

そしてわたしが幸せになるための語り物。

 

ここまで読んでくれた人、ありがとう。

わたしの人生を少し知ってくれて、ありがとう。

 

願わくば、長男長女にこんな負荷かけんなよ世の中の親。

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