動けないということ
みなさまこんばんは、お加減はいかがでしょうか。
わたしは昨日調子に乗りすぎたせいか疲労がすごく、かといって眠れるわけではないので4時から起きてはいたのですが、とにかく動けない。だるい。手足の痺れもひどい。右腕なんて痛すぎて動かせない。胸も痛いし。
それでも朝の薬は絶対に飲まないといけないから、7時頃にようやく起き上がって、ゆっくりと朝食の用意をして、薬を飲む。
家族は学校に仕事にと行ってしまって一人。
ふと家の中を見るとテーブルの上にはものがいっぱい乗っているし洗濯物は溜まっているし、洗い物の食器だって溜まっている。
やらなくちゃなあと思いながらも、やる気が起きない。仕方なく洗濯機だけ回すことにして、一旦休憩。疲れやすい体質はこういうときに不便だ。
洗濯物を干して、早めに昼を食べて薬を飲み、買い物へ。今日は近くのスーパーが特売をしていたので助かりました。じゃないと少し遠くまで行かないといけないし。
夕方まではだるくて動けませんでしたが、夜からは少し回復して動けるようになりました。そこでスマホを見ると、いろんな連絡が来ていました。
誰かに頼られるということ
体は動かなくても頭は動く。特にステロイドを飲んでいるので、脳内だけは超が付くほど活発に動く。だからこそ、あれやらなきゃ、これもやらなきゃ、って苦しくなったりもするのだけれど。
今まで、
「動けなくてもいいよ、いてくれるだけでいいよ」
そういってもらえるだけで嬉しかった。それでもどこかで、自分が荷物になっているんじゃないかという意識でいっぱいだった。だから余計に無理をしたこともあったし、大丈夫って嘘をついてずっと笑ってきた。
それが嫌で退院したのに、やっぱりそう簡単に癖は抜けなくて。
無理をして、無理をして、無理をして笑った。
でもさっき見たスマホには、ありがとうのメッセージがたくさんありました。
元気なとき、体が動くときに答えた質問や相談の返事で、感謝の言葉がいっぱいあって。
こんな自分でも誰かの役に立てるのかと。
だったら、動かない体でも、動く頭で誰かの役に立てるのなら、それはとても幸せなことじゃないのかなと。
頼られすぎると重く感じたりもするけれど、それでも、できることが極端に限られているわたしにとっては、誰かに頼られて、役に立てることが嬉しいんです。
それは家族しかり、婚約者しかり、友人しかり、、、
自己肯定感を養うことが幸せにつながるのでは
取り替えのきくものじゃなくて、それでないと成り立たないもの。
他の誰かじゃなくて、あえてわたしを選んでくれたこと。
社会の一部として組み込まれて生かされるんじゃなくて、
誰かにとってのかけがえのない特別な存在として、そのつながりとしての社会の中で生きること。
その中で生きられたら、どれほど幸せなことなんだろう。
と感じさせていただいた一日でした。
ちょっと偉そうだったかな?ごめんなさい(//>-<//)
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