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わたしの考える障害受容/わたしはどこまでわたしなのか

闘病記録(入院記録)

わたしはどこまでわたしなのか

「わたしはどこまでわたしなのか」疑問に思ったので綴ります。

まず疑問に思ったきっかけは、原稿を下書きしている今日、

夕方18時頃から少し眠れたと思ったときの起床時(2019/01/21/19:45)、体が痛すぎて起き上がれなかったからです。

正確にはもっと早い時間ですが、指すら動かせなかったので、時刻を確認したのがこの時間です。
寝ていたかったけれど、晩ごはんの準備のために無理やり起床しました。

正直なところ、もう「痛い」には慣れたはずで、実際慣れていて

だから、「痛みで動かせない」自分かなり驚きました。

確かに、それくらい痛かったしまだ痛いのですけれど

筋肉から関節から、自分を構成するものが全て痛く感じて

わたしは、どこまでわたしなんだろう。

痛みを訴えるこの筋肉も神経も関節も、細胞レベルまで、それはもう「捨てたい」くらいに「わたし」なんです。

「捨てたい」と思うから、逆にまだ「わたし」なんです。

でも半身不随のときだったり、今朝(2019/02/21/AM)の右腕みたいに「動かない体」は、わたしじゃなくて「物体」なんです。

「捨てたい」なんて思わなくて、ただ半身の異物感(いうならば「物体感」)、そして、ただ物体が肩からぶら下がっている感じです。

だからといって全身不随のとき(正確には首から下の不随)は、動かないけれど「わたし」だったんですよね。

だから一旦、

全てが運動としては動かなくても、意識がその部分にあれば、それは「わたし」になるのかもしれない。
ただし部分的に運動として動くのならば、動かない部分は相対的に「わたし」じゃなくなるのかもしれない。

とします。

ただ、亜急性期病院の頃から始めた闘病日記(ルーズリーフ版)にも記載があるんですよ。

さようなら、わたしのからだ。

色んな麻痺を経て戻ってきたわたしのからだは、元のからだではなくて、別物だったから。

わたしは一度自分とさよならしているし、戻ってきた体はもう「物」として捉えているんですよね。

それでも、最近の痛みを訴えるこの体は間違いなく「わたし」だと感じているので、改めて問おうと思います。

わたしはどこまでわたしですか。

動かしていないのに痛んで立てないこの脚はわたしですか。

痺れと痛み以外の感覚がないこの足はわたしですか。

角度や向きを変えることすらできないこの肘はわたしですか。

激しく痛んでものを持てないこの手首はわたしですか。

痛みのあまり部屋の電気のリモコンのボタンすら押せなかったこの指は、わたしですか。

こうして並べてみると、わたしがどれだけ痛みに苦しみを感じているのかがよくわかりますが、

これらの問いに対するわたしの答えはすべてyesです。

どうでもいい話を挟みますが、わたしの今使っている薬はかなりキツイです。末期ガン患者用の、緩和ケアグループが処方した痛み止めに痙攣止めも複数使って、それでも治まらない痛みと痙攣が、常時襲ってきます。

そしてこれだけ色んなことを並べ立てた末に気づきます。

「わたしは、わたしを否定したい」

「こんなのわたしじゃないと言いたい」んですよ。

もっと動いた、
もっと自由だった、
もっともっと、
やりたいことを、やりたいときに、
やらなきゃいけないことを、やらなきゃいけないときに、

できたんですよ。

日を跨いで昼になった今日(2019/01/22/13:30)に思うのは、

「捨てたい」と切実に願うほど、この体はわたしで、
その部分を意識しないくらいのとき、つまりその部分に関心がなくどうでもいいときは一時的に「物体」であり「わたし」ではなくて、
そして無意識下では、わたしの体はすべて「わたし」と捉えている

のだと思います。

障害受容について

ということは、これだけ長く話しておいて「わたしはわたしでしかない」という結論に至ったわけですが、

こんなものをわざわざ綴るのは、

  • わたしの感情整理のためであり
  • 障害を持った患者の心境って、似たような部分があるのではないかな

と思うわけです。

こんなに前みたいに働かない「物」は、「わたし」じゃない

これが第一心理で、そして

一時的に関心がなくなり、諦めたときが一般的に「障害受容」と呼ばれる段階

であり、第二心理で、そして

根底には「わたしはわたし」であり、こんな「物」、(精神疾患や高次脳機能障害まで拡張すれば、こんな「レベル」じゃないという思い

があって、

障害受容なんてできるわけがない

と思うのです。

リハビリ、福祉、看護関係の本にはよく

「障害受容の段階」「障害を肯定的に捉える、諦めではなく発想の転換」などの記載がありますが、

そしてわたしも真に受けて授業を真剣に聴いていましたが

今思えば馬鹿馬鹿しいです。無理です。

治れるのであれば、治りたい。
戻れるのなら、疾患を、障害を持つ前に戻りたい。

これが患者、障害者としての心理であり、

わたしは「障害受容は一生不可能である」と結論づけます。

障害受容について知りたい方はこちらからどうぞ→http://www.arsvi.com/d/aod.htm

なお、家族の障害受容の重要性については改めて記述したいと思います。

追記:これを本書きしている現在(2019/02/22/20:30)、

夕飯を食べ終わった皿を下げに立ち上がって痙攣を起こし、洗濯物を左手でたたもうとして痙攣し、「りんごの皮をむくの手伝って」というお願いすら「手が満足に動かないから」と聞けないで、トドメを刺すみたいに心臓の調子がおかしくなってきて、悔しいくらいに「わたし」が「わたしじゃない」と感じます。

ただそれでもこうして綴るのは、

こうした患者の心理を「障害受容の段階の途中にある」と考えてほしくないから
障害受容すればもっと楽になるのに、と医療者に考えてほしくないから

です。

そうじゃない疾患・障害もちの方はいるかもしれませんが、

わたしは出会ったことはありませんが

「明るく振る舞うこと」と「障害受容すること」は別であり、

「前向きに生きること」と「障害受容すること」は別で、

弱音や本音を見せないことがポジティブですごいと褒められるのは大間違いで、

そしてそのことをより多くの人に周知してもらうことが、疾患・障害もちの人でも生きやすい社会を作る第一歩になれば良いと思います。

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