前半と後半で引用元が違うのに、なぜかフィットしている気がする。
けれど筆を何に使うのか。
ペンは剣よりも強しとはいうけれど、筆は刀よりも強いのか。
むしろカッターナイフにすら負けそうだ。
そんな弱々しい雰囲気があるものこそ、筆だと思う。
強い字も書ける。書の世界は深い。
それでも強い字を書く筆はといえば、それは弱そうだ。
でもその弱そうなところを儚さと呼ぶのではないだろうか。
鐘の音を擬人化したこの一句が、わたしは好きだ。
ここでいう鐘は、人より大きく年末に108回つくような青銅の鐘だろう。
そんな鐘の音すら、諸行無常で移り変わる。
それが「世の理」だと。
世の理。
りんごは木から落ちるし、ピサの斜塔から鉄球と木球を落としても速さは変わらない。
厳密にはこの実験、空気抵抗で変わったらしいけれど。それでも。
世界を記載するルールは、方程式は、いつも綺麗だ。
でも、世の中は理不尽だ。
頑張っていても突然クビになるし、病気にもなる。障害を負う。
生まれつきのことだってある。頑張る前に結果が決まっていることもある。
世の中は、この世界はとても理不尽だ。
理不尽な世界にわたしたちは生きている。
ところで「理不尽」とは何だろう?
- 「理」:ことわり、ルール
- 「不」:後にくる語を否定する語
- 「尽」:尽きる、果てる、無くなる
つまり理不尽とは、尽きることない理、ルールは無限大にあることを示している。
頑張っていても
突然クビになるし、病気にもなる。障害を負う。
生まれつきのことだってある。頑張る前に結果が決まっていることもある。
それを「理不尽だ」と言うのならば、それはクビになったり病気や障害を負ったりすることも「大量にあるルールのうちだ」と認めることになる。
この世界の理はたった1つの方程式で叙述できるという。
それには微積や量子が絡んでいて、わたしはとても説明できないしそもそもまだ発見されていない。
だがわかるのは、この「理不尽」という単語が「たった1つの方程式でこの世界の理を表せる」という数学的、物理的、量子的探求の先にあるものと矛盾するということだけだ。
「この世は理不尽だ」と嘆くことは、ひどく簡単だ。
けれど「理不尽」という単語で「これもたくさんある世界の理のうち」と現状を認めることになるのなら、わたしは今後「理不尽」という単語を使えなくなるだろう。
それでもし「理不尽だ」と怒り心頭に発している出来事を認めていることになるのなら、この世は理不尽なのではなくただ移ろっているだけなのだろう。
それを認めたくない心を表すのは、きっと「理不尽」ではない。
何がちょうどフィットしてくれるのか。それは個人差があるだろう。
「この世は理不尽だ」と嘆くことは簡単で、共感を得やすい。
それは自分にとって不可解で不愉快な出来事に対する思いをまとめてくれているからだろう。
でも気持ちには個人差がある。自分の気持ちは自分のものだ。確実に。
ならば使うべき言葉は、理不尽ではなく「不愉快」なのではないだろうか。
なんて考えたところで、辞書には理不尽の意味が正しく載っていて、この世を嘆く使い方も合っているだろう。
そんなことを考える、右手の痺れが不愉快な朝。
この世はいつも理不尽で、今日も原因不明の痛みがわたしを襲う。
それでも生き抜くことに、わたしは意味を見いだせないでいる。
ただ諸行無常の響きを聞いてみたいものだと願いながら、この世が誰にとっても住み良い方へ移りゆくことを期待しながら、一度目の徒然を終えたいと思ふ。
ねむ。