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【誰にも理解されない】全身不随の苦しみは居場所がなくなることじゃないか

闘病記録(入院中)

「全身不随の苦しみは伝えても伝わらない」と訴えたことはたくさんありました。

それでも今回は、まだ語っていない、今だから語れる全身不随で味わったショックについて語ろうと思います。

医療者へ向けた全身不随の苦しみの話→こちら

診断前のショック

多発性硬化症(MS)と診断される前、わたしはバイトリーダーに全国規模の学生団体のリーダーにボランティア団体のリーダーに、もう思い出せないけれどたくさんのリーダーをしていました。

リーダーでなくても、たくさんの活動をしていました。

かけ持ちしていたバイトの数は、どこかに書いていた気がするけれどそれも思い出せない。

ただはっきり思い出せることがあります。

 

すべては1週間前から始まった

 

三つ子の魂百まで

「三つ子の魂百までだよなあ」と最近思いました。

それは症状の悪化がパソコンやスマホの打ち間違いの数で判断しやすいから。

MSの診断1週間前、わたしは利き手の右手でスマホを打っていました。

高校3年間はガラケーを使っていたけれど慣れとはすごいもので、スマホに変えてからの2年と1か月弱でわたしはスマホのフリック入力に慣れきっていました。

それができなくなったのが、忘れもしない、2018年の5月21日。

経過はいろんなところで書いていますし更新中なので、すでに語っただろうことについてはもう語りません。

ただその1週間わたしはTIA(一過性脳虚血)を疑いましたし、歩き方が変わってからは脊髄小脳変性症を疑いました。

※特徴:歩隔(歩く時の足の横幅)が大きくなる

バカげていますが、毎日自分でテストもしました。何もできませんでした。不合格。

仰向けで手足を上げると、右手右足だけキープできず倒れました。

異変を感じながらも病院に行かなかったのは、TIAではない(緊急性はない)と判断した上に、その週の土曜日に学生団体の会議を控えていたから。

でも意地になってまで迎えた土曜日は、明らかにおかしかった。

手すりとパソコンと

手すりがないと歩けない。

パソコンは、もう、打てない。

「ごめん、キーボード打てなくて、代わりに打ってくれる?」

リーダーなのに、書紀も会計もあるのに、右手が動かず後輩にお願いしました。

「病院に行かなければ」

そう思った。でも、病院はお休みだ。

食器が使えない

日曜日にはデートがあった。

当時は月に1回会えれば良い方だったわたしと彼。

待ち合わせ場所までなんとかたどり着いた。そこで

「歩けないから支えてほしい」

とお願いし、ようやく入ったハンバーグのお店で

「ナイフもスプーンも使えないから」

と、左手だけで持ってそのままかじれるパンを食べる虚しさ

1か月後にはわたしを講師として食器の扱いのマナー教室を開く予定だったのに。

 

その晩、わたしの右半身は完全に、ちっとも、1ミリたりとも動かなくなった。

 

「病院に行かなければ」

そう思っても、病院はお休みだ。

緊急ではない

異変に気づいた家族が救急車を呼びました。

けれど、わたしはあまりに医療に詳しすぎました。

自分の歩行のどこがダメなのかをはっきりと説明できましたし、そもそも1週間前から兆候があったならその異変の段階で病院にかかるべきだろうと、わたしのつけていた悪化記録が救急隊員を困らせました。

 

救急車で運ばれたわたしがどういう扱いを受けたのかは、このページを見てください

ただこのページに書ききれないほどの怒りが沸いたし、今でもその病院へ運ばれる患者さんを見ると「可哀相」とわざわざ声に出して言ってしまうくらいには、書けないくらい酷い扱いを受けました。

 

また、わたしは過去にも病気をしていますが、その判明が遅かったりほとんどの場合は不明だったりしたのも病院に行かなかった理由のひとつです。

中学のとき、突然指のすべての関節が赤く2倍くらいまで腫れ上がりましたが、原因はわからず「貧血のせい」とされました。

高校のとき、突然顔が腫れ上がったと思えば全身がむくみ、体重が5kg増えたこともありました。

原因はわからず、のちに血液検査から「溶連菌感染症の腎臓感染だったのではないか」と言われました。

赤ちゃんがよくかかる溶連菌感染症ですが、大人になってからかかると症状も重く後遺症のリスクが格段に上がります。

そんな病気でも、自然にむくみがおさまるまでわかりませんでした。

大学入試前には、髄膜炎にかかっています。

そのときは2日間、続けて病院に行ってもインフルエンザが陰性だったので「ただの風邪」と言われ続けました。

発症3日後に救急車で運ばれて5日後に目を覚ますまでは昏睡状態です。

自己弁護ですが、こんな過去があれば「どうせまたこんな症状ではわからない」と考えて病院から足が遠のくのも自然ではないかと思います。

診断時のショック

診断されたときにはそこまでショックではなかった」という話もしているでしょう。

一気に全身不随になり、トイレまで全介助されたショック」についても語っているはずでしょう。

だから今回は、友人関係と授業でのショックについて語ろうと思います。

 

学校の授業

幸か不幸か、わたしが入院した時期は病院実習と被っていました。

わたしが車椅子からもずるずる滑り落ちる体をどうにかしようとしている横で、授業が開かれていました。

 

同級生が患者さんを診ている横で、大量の氷を備え、先生に体を動かしてもらう。

このやるせなさ。

 

全身不随がおさまり右半身不随に戻ってからは、左肘を車椅子の肘置きに置いてなんとか授業に参加しました。

まだ腹筋には力が入らなかったから、1歩間違えば右側にだら~んずしゃーと崩れ落ちた。

90分は、長かった。

実習

まず入院患者さんに

「すいません入院してますけど学生です」

と挨拶するところから始まりました。

 

患者さんの情報は言いませんが、神経がつながっていなくて動かせないわたしの方が明らかに重症で、授業終わりに

「お互い元気になりましょうね」

と挨拶するのが苦しかったです。

伝わりますかね?

苦しかったのです。

杖をついて病室へ戻る患者さんの後ろ姿に泣きました。

実習生への対応

大きな病院だったので、さまざまな実習生がいました。

病棟に来る実習生にはベッドにもたれてくる人がいたので看護師さんと一緒に仕返しを考えるくらい当時から嫌でしたが、リハビリ科の実習生も、今思えばつらかったです。

 

もちろん当時は誰でも受け入れていました。

「自分はこういう経過をたどり、こうして入院し、こういう筋が動かないのでこんなリハビリをしている」

既往歴に病歴にと必要事項をすらすらと伝える自分は、とてもレポートは書きやすかったと思います。

 

誰にも笑いながら接していたし、正直あそこまで体が動かないとギャグの世界だ

動いたと思ったら痙攣で何時間も固まるし、どんな薬も効かないし。

変な姿勢でリハ室から病室へ移動
痙攣と硬直が解けるまで何時間も待つ

笑うしかなかった。

 

「俺ら足つったら痛ってなるのに」
同級生に言われた言葉ですが、
その程度で痛がっていたら、わたしという人間は務まらない。

 

だから笑いました。

痛みが和らぐことを信じました。

 

「痛みも痺れも消えないよ」

主治医にそう宣告されながら、痛みが消えることを信じました。

 

差し入れ

 

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ありがたいことに、「病院ひまじゃない?」と差し入れを持ってきてくれる同級生がたくさんいました。

差し入れの本は、ページがめくれなくて読めなかった。

視神経が一時的にやられていて、文章が読めなかった。

差し入れのDVD。

なんとか小分けにして観たカイジは、ビルの上を歩くシーンで「こんなことしかできないクズ」という言葉が突き刺さった。

1人でベッドから車椅子に移動することすらできないわたしには、ビルの間にかけられた細い鉄骨の上をどこにもつかまらずに歩くカイジはクズではなかった。

じゃあわたしは、クズ以下じゃないか。

全身不随で観るには、かなり刺激が強かった。

 

どん兵衛を持ってきてくれた子がいました。

自分では蓋を開けられないし、お湯も注げません。

もちろん食べることも。

どん兵衛が贅沢品であることを知りました。

ペットボトルボーリング

「ボーリングしてるの?」

来る人来る人にそう言われたことはありますか?

わたしはあります。

 

500mlペットボトルに水がたくさん入っていると持ち上げられないので、ちょっとだけ入れて、口はゆるめてすぐ開けられる状態にして、脇のテーブルに置いているんです。

ご飯のときに「どこに置いたら良いかな?」と毎回困惑させるやつです。

500mlペットボトルが満タンだと持てない気持ち、わかりますか?

→1番のショック

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